忍熊王子・麛坂王子旧跡地 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
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お寺や神社に行ったりしています。



忍熊王子・麛坂王子舊跡地

(忍熊王子神社/忍熊皇子社/忍熊王子・麛坂王子の墓)

奈良県奈良市押熊町287


主祭神

忍熊王・麛坂王


忍熊王と麛坂王


日本書紀によれば忍熊王と兄の麛坂王は仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の娘、大中姫(仲哀天皇の妃)である。 


仲哀天皇崩御の後、神功皇后は新羅出兵を終え筑紫に還り誉田別皇子(後の応神天皇)をお生みになった。

翌年春二月皇后は皇子とともに大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った忍熊・麛坂両王は、皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍を迎え撃とうと菟餓野(今の大阪市北区)に出てその吉凶を占うと狩を催したとき、兄の龐坂王は突然赤猪に襲われて亡くなられた。


弟の忍熊王とその軍は皇后軍のため次第に押され菟道(宇治)まで退却。

一方皇后軍は三月の初めに山背(山城)へ進出し、菟道に至って河の北に布陣。

戦闘を始めようとした忍熊軍は謀略にあざむかれて敗退。

山背と近江の境の逢坂における最後の戦にも敗れ、忍熊王は瀬田の渡し場付近で入水して亡くなられた。


この日本書紀の伝承にある忍熊王は、当時この地域を支配していた実在性の高い人物・王の一人であったとも考えられる。

そしてこの地域にある日本有数の巨大な前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」とのかかわりも考えてみる必要もある。

古来より連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の古い歴史を忍ぶことができる。


忍熊王子神社の祭日は、四月十八日で、当日は宮座の者が参列して古来の儀式によりお祭をする。

また、農家では昔からこの日を「だんご休み」といって農作業を休み、「よもぎだんご」を作って祖先にお供えするとともに近隣縁者の家に配る風習がある。


ここ「押熊」は、鎌倉時に作成された「西大寺田園目録」の中の、 添下郡京北三里の所に「秋篠押熊原」 との地名がみえ、また「大和國添下郡京北班田図」にも「押熊里」の記入があることにより、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。


なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」・「カゴ坂」は、押熊の祖先が 麛坂王に因んでつけた名称であろう。



鳥居を入ると、小さな祠があった。


小さくてささやかだけど綺麗にしてあった。

大事にされているのだろうと感じて、何だか嬉しい。



「忍熊王」はきっと、この辺りを支配していたんだろう。

そして、地元の人に慕われるような良い政治をしていた。






眼下に「八幡宮」と書かれた、押熊八幡宮の鳥居が見える。


押熊八幡宮にあった案内図。

忍熊王子・麛坂王子舊跡地は右下、「おしくま王子 かごさか王子の墓」として書かれている。



次回は押熊八幡宮について📝





オマケ

旧跡地のコンクリートブロックの囲みの向かって左側の道を見ると、亀がいた!なぜ⁉︎


池でも近くにあるのかなぁって思ったけど見付け

られなかった。


私の手より大きな亀でした。


押熊八幡宮に向かう途中に咲いていた花。

百日草(ヒャクニチソウ)🌸


向日葵(ヒマワリ)🌻


写真撮ってないけど、この下、押熊八幡宮前に水があって子供が小魚なのか何か獲ろうとしてる風だった。

亀ももしかしたらこっちから歩いて来てたのかも。



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