応神天皇陵(誉田御廟山古墳) | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
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お寺や神社に行ったりしています。

 

 

仲哀天皇陵から20分程歩いたよ。

橋の名前も「応神橋」となっていて良い。

 

 

誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳は、5世紀前半に気付かれた前方後円墳。
墳丘長約425m、後円部直径約250m、前方部幅約300m、高さは後ろ円部頂上で約36m。

墳丘長は百舌鳥古墳群の大山古墳(仁徳天皇陵)に次いで全国第二位。
墳丘の体積については全国第一位。

 

 

誉田御廟山古墳の北側の外濠と外堤に接して、陪塚(大型の古墳に付属する規模の小さい古墳)の1つである誉田丸山古墳がある。
龍の文様を透かし彫りで表した豪華な金銅製の鞍金具が発掘されていて、国宝に指定されている。

 

拝所の辺りに、宮内庁書陵部 古市陵墓監区事務所がある。

 

 

誉田御廟山古墳
大阪府羽曳野市誉田

 

 

応神天皇
惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)

 

 

応神天皇の陵について。

『日本書紀』には陵名の記載はないが、雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。

『古事記』には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」とある。

『延喜式』諸陵寮には「惠我藻伏崗山陵」として「兆域東西五町、南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と見える。

 

 

神功皇后陵や仲哀天皇陵とは違って、応神天皇陵は古くから応神天皇の陵として信仰されていて、側には「誉田八幡宮」もある。

 

 

神功皇后の三韓討伐の際にお腹にいた「胎中天皇」と「誉田別尊」と「八幡神」が同一人物かという点は、私はかなり懐疑的にみているのだけれど、この場所が「誉田別尊」の陵である可能性は高いと考える。

 

 

地図に竹内街道(たけのうちかいどう)とあって「おっ」と思う。

これは、武内宿禰から来ている?

調べても、名前の由来がそれとは書かれていなかったけれど、推古天皇の時代にできた大阪と奈良を結ぶ日本最古の官道だそうな。

 

 

しかし、さすが全国第一、二位の古墳。

 

 

周囲にたくさん案内板があって面白い。

 

 

ただし、1つ1つ読みながら歩くのは暑いし時間がかかるので、実際は写真だけ撮ってサクサク歩いて行ったよ。

 

 

写真は良いよ!後でじっくり見返すことが出来るから照れ

 

 
歩いて歩いて、次は誉田八幡宮。