日本最大銅鏡 八咫鏡の平原遺跡 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
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お寺や神社に行ったりしています。


平原遺跡

福岡県糸島市有田1



思ったより小さくて拍子抜け。

これすらも後から作られたものなのか、説明書を読むと「墳丘は全て失われていた」とあった。


かつては塚畑と呼ばれていて、1965年、地主がみかんの木を植える為に溝を掘ったところ、銅鏡片が出て来た事で発見された遺跡だそう。



立派な古墳はないけれど、周りが広々と芝生が綺麗な公園になっていることから、大事にされている場所だと分かる。

地域の集まりなのか、ペットボトルロケットを飛ばす集団がいた🚀


(以下、現地の説明書と伊都国歴史博物館の展示とを混ぜて掲載)



1号墓は14メートル×12メートルの四隅が丸い長方形で、その中央に木棺が埋葬されていた。

(木棺そのものや人骨についての記述は見付けられなかった💦)



1号墓の東側には直径70センチメートルの大柱が立てられていたとされている。


大柱といえば、そういうの吉野ヶ里で見たぞ↓


吉野ヶ里遺跡では、隣に立っている柱は祖霊の宿る柱だと書かれていた。


平原遺跡では意図不明と書かれていたけれど、大柱は王墓から見て東に位置するところから、日の出の方向を意識していると考えられ、太陽信仰に関係するものではないか、とも。


王墓主体部復元模型。

(真っ直ぐ撮れば良いものを、私は何故か斜め横から写真撮っている)


副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数。


副葬されていた鏡の種類は大きく4種類。

•(大型)内向花文鏡(5枚)

•内向花文鏡(2枚)

•方格規矩四神鏡(32枚)

•四螭鏡(しち)(1枚)


ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数が弥生時代としては日本一なんだって!

あくまでも、「現在見つかっている中では」だけど、それでも、その当時大変大きな力を持った人がここにいた事は確かだろう。


素環頭大刀。


ガラス勾玉、瑪瑙管玉(瑪瑙管玉は、弥生時代の日本では唯一の発見例だそう)。


ガラス小玉、ガラスのピアス。


武器が1つしかないこと、装飾品が多い事から、埋葬者は女性だと考えられていて、伊都国女王の墓だとされている。


↑伊都国女王の衣装を想像して制作されたもの。



銅鏡は割れた状態で出土している。

何で割れていたのかは未だ解明されていない謎。

まさか、みかんの木を植える溝を掘った際に、気付かず全部割ってしまったとかではないよねぇ?


平原遺跡で1番の目玉はこちら❗️



直径46.5㎝は、現在見つかっている中で日本一の大きさ!

これを「八咫鏡」とも呼んだりする。



一般に「八咫(やた)」は、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではないとされている。

けれど、咫(あた)を円周の単位と考えて「八咫鏡は直径46cm前後、円周約147cmの円鏡を意味する」とも言える。


分かりやすいようにと自分の手を比較対象にしようとしたけど、ガラス越しだからよく分からないね😅


↑これはレプリカ



糸島生まれの考古学者、原田大六が、かなり情熱をかけていた様子。

そりゃあ、地元でものすごいものが出土してるんだもんねえ!


伊都国歴史博物館の前身である伊都歴史資料館の初代館長への就任が予定されていたが、それを待たずに亡くなってしまい、同資料館名誉館長の称号が贈られ、館の前に銅像が建てられた↑


発掘の翌年には、持論を展開した本を出している↓




被葬者を「大日孁貴尊(おおひるめのむち)=天照大神」だ!っていう説に私は賛同しかねるけれど、でも、神話の神様を実在人物として語ろうとする姿勢は好き。

(好きだけど、行き過ぎるとそれはそれで気味が悪くなるから程々にね…)


↑持って銅鏡の重さを体感出来た。


考古学の観点からの話では、魏志倭人伝は重視するのに古事記・日本書紀を無視するようなとこあるからさ…。

(現在進行形で、吉野ヶ里の発掘調査のあれだって、邪馬台国や卑弥呼の話題は出るのに、記紀の誰それって話題は全然聞かない。)

記紀をもっと大事にして欲しいわ…。




複製品。


被葬者はアマテラス本人じゃなくて、アマテラス(太陽神)を祀る巫女的な性質を持つ女性権力者、ってのが妥当かなぁって気はする。



展望台の階には、鏡のパズル。



古代のロマン溢れる平原遺跡(の出土品)でした😆😆😆