次は、お墓のあるような場所へ向かう。
見えてきたあの建物。
祀堂といって、歴代の王の祖霊を祀る建物らしい。
もうこれは、神社だね?
隣に立っている柱、祖霊の宿る柱らしいよ。
現代に残る神社にも柱があったりするよね。
あと、神様を数える単位が「一柱、二柱…」だったり。
一つスッと伸びた柱に神を見る気持ちはわりと分かる。
(ただ、現代の感覚だと、あまりに真っ直ぐな柱は電柱っぽいから微妙で、「樹木」って感じの方が神聖な感じする。)
北墳丘墓には、人骨と一緒にガラス製のアクセサリーや青銅の剣などの貴重品が納められていたから、身分の高い人々の墓だと考えられている。
あとさ、甕棺!
そうそうそういや私、子供の頃は古代といえば甕棺って記憶あるわ。
自宅から1番近い場所にある歴史資料館にも、甕棺が並んでた。
これって特定の地域限定の埋葬方法だったんだなーって改めて気付く。
糸島は(甕棺もありつつ)支石墓だったし、下関の方の(順番が前後してる。ブログにまだ書けてない。)も石で囲ってた。
その土地に何が豊富だったかによるんだろうね。
この辺りには石は乏しくて粘土が多かったんだろうねきっと。
敷地内の吉野ヶ里遺跡展示室へ。
ここにあるのは大体レプリカで、写真撮影OKだったのがありがたかった☺️
甕棺は語る
成人を埋葬する大型の甕棺墓は弥生時代の北部九州を中心にみられる、独特な埋葬方法です。
甕棺は甕の型式から年代を導くことができ、また、 密閉して埋葬されるため、人骨や副葬品が残りやすく、多くの情報を提供してくれます。
吉野ヶ里ではこれまでに3100基以上のが発掘されており、350体以上の人骨が出土しています。 なかには多数の貝製輪をつけた人骨や、戦争の犠牲者と考えられる人骨もあります。 整棺には副葬品として青銅製の鏡や剣、鉄製品、装身具としてガラス製管玉が残っていました。 また衣服と考えられる絹や麻の布片も発見されています。
吉野ヶ里ではこの大量の甕棺を焼いた場所や、作り置きをしていた場所は確認されていません。また大型甕棺の製作には専用の工人がいたという説もありますが、詳しいことは分かっておらず、多くの謎を残しています。
沢山の甕棺があるんだから、それを作ったりする施設があったはず。
うーむ。
吉野ヶ里遺跡で既に見つかっている建物のうちのどれかが工房だったかもしれないし、濠が粘土の採掘場所だった可能性とかは?…それは、そこの土がどんな土かだよねー。どうよ。
あとは、焼く為の窯がどこにあったか、だよね。
…竈となりえるのがどんなかが分からないから、これ以上は考察出来ない😅
埋葬物の中でときめいたもの!
鏡。文字が模様のようにして刻まれている。
連弧文鏡(れんこもんきょう)「久不相見、 長母相忘」
連弧文鏡には、「久不相見、 長母相忘」 (長く会わなくても、お互い忘れないようにしましょう) の銘がみられます。 同じ形、 同じ銘文をもつ銅鏡は、中国雲南省の前漢時代の墓 (石塞山7号墓) から出土したのが知られている程度で、非常に珍しいものです。
この連弧文鏡は、弥生時代中期後半(約2050年前)の甕棺墓から発見されました。 そこには、司祭者と考えられる女性が埋葬されていました。
身分の高い女性の人骨と共に埋葬されていた鏡の文章。
神功皇后が飯塚で兵を解散させた時、お互いに「いつかまた会いましょう」って、別れを惜しみながら別れたという。
そういうイメージがはっきり浮かんできて、なんとなく、良い☺️
あとさ、髪の毛も出土する事あるのね⁉︎
保存状態がそれほど良かったってこと‼︎
写真見てもよく分からないけど、みずらの形に結われていたんだってさ。
それが分かるの、すごい。