吉野ヶ里遺跡の北内郭へ向かう。
のどかな風景。
入口に着いたのだけど、南内郭より入口が厳重!
中もほら、まっすぐには行けないつくり。
柵を避けて進む。
良いね!
高くて立派な建物があるのが北内郭の特徴。
物見櫓から見渡してみよう。
北内郭から見て外側の様子。
内側の様子。
大きな建物(主祭殿)の前にある建物。
年に数回しか開放してないよって呼び込みだった!
登るのにちょっと気合いがいる板を登り、中へ。
ここは、主祭殿に入る前に身体を洗い清める場所なんだそうな。
こんな風なお風呂があったのねー。
…ってまあ、どこまで正解かは分からないけどもね。
水とかどっから持ってきてどうするんだろう。
川とか池とかの近くで清めた方が良くない?
せめてもうちょっと低い場所じゃないと難しくない?とかさ。
個人的に、何でもかんでも「当時は中国の影響を受けて中国でやってたような事をやってたんだ」ってな説明は、納得しかねるんだよね。
中国の方が、古い時期の事が文章として残っているから様子が分かり易かったってのは理解しているし、交流は確かに昔々からあってただろう事は理解している。少なからず影響を受けていただろうとは思うのだけれど。
そんなに古代から何でもかんでも中国の真似してたのなら、もっともっと日本は中国っぽかったんじゃないの?って思うわけでして。
中国や朝鮮とは違う独自の文化があった事は大大大前提として考えないといけないんじゃないかって思ってたりとかして。
あとはね、一方的にこっちが影響受けるばかりではなく、向こうだってこっちに影響を受けてもいるはずだから、同じ物が日本と中国で見付かっていた場合、どっちが発祥地なのかってのは簡単に判断出来ないよねって思う。
(中国で先に発見されていても、日本では見つかってないだけでもっと古いものが存在するのかもしれないし。)
さて、主祭殿!
登ると、会議が行われていた!
1番偉い人。
色々な品も並んでいる。
会議は難航し、決着が付かない。
そんな時は更にもう1つ登った場所で、神に尋ねるのだという。
古事記や日本書紀にも、アマテラスとスサノオから始まり、神功皇后であったり様々な神様達が、困った時には占いをやっている様子が出てくる。
いわゆる魏志倭人伝にも、日本には女王がいて占いをやっていたってな事が書いてあるから、これは確かな事なんだろうって感じる。
弥生時代や古墳時代に出土したものを見ると、埋葬品から察するに身分の高いと思われる人物が女性である例が少なくない。
だから、全部が全部ではないにせよ、女性が重要なポジションに付いていて、占いも大いに活用しながら政治を進めていたんだろうな、と。
後の、男性主体の政治とは違う時代に思いを馳せるのでした。
普通は竪穴式住宅だけど、最高司祭者は高床住宅に住んでいたのではないかと考えられている。
まあこれはね、1つの説として。
そういう最高司祭者も、どこかの時代のどこかの場所にいたのかも知れないって思ってもみるけれど、
ほとんど人とも会わず、外光を取り入れる窓もない部屋にいるとかそんな寂しい事ある?
罪人じゃあるまいし。
こういう場所に住んでたかも知れないけれど、普段は外に出る事もあるし、人にも会っていて欲しいなぁと。
それは私の期待でもあるけど、古事記とかを見た感じでは、最高司祭者がずっと引きこもって暮らしている感じはしないから。
魏志倭人伝には、女王は人前に姿を表さないってな事が書かれてるけどさ!それは、外国から来た人相手に隠れてただけなんじゃない?と考える。
だって危ないじゃん。
中国からの使者の対応を、従者で済ませられるならその方が良い。そんなスタンスだっただけの可能性を考える。
東祭殿。
日の出の方向を考えて建てられてるっぽいんだって!
神社とかを見ていても、方角については現代人以上に古代の人は大切にしてる感じする。
そして段々、これらの建物に神社の社殿みを覚える。
原型はまさにこれなんだろうなーと、しみじみ。
まだ続く。