「狭山事件」から60年

 『朝日新聞デジタル』2023年3月18日は、57年前に静岡県清水市(当時)の民家で味噌製造会社の専務一家4人が殺されて集金袋を奪われ、この民家が放火された「袴田事件」の再審が東京高裁で決定されたことに関連して、「同様に『冤罪(えんざい)だ』と再審開始を求める男性が埼玉県にいる。60年前の『狭山事件』で罪に問われた石川一雄(かずお)さん(84)だ。(略)一雄さんと妻の早智子さん(76)は、13日午後、狭山市の自宅でテレビに釘づけになっていた。東京高裁の決定が速報として出ると2人は歓声を上げ、『次はうちの番だね』と喜び合ったという。『袴田さんの家族とは長い間ともに戦い、交流してきた。うれしかった』と早智子さんは言う(略)」と、石川一雄さんと妻の早智子さんの声を伝えている。

 よく知られているように、「狭山事件」とは、1963年5月に埼玉県狭山市で女子高校生が殺害され、被差別部落の青年・石川一雄さんが犯人として逮捕された冤罪事件である(1)。同年5月1日、狭山市内の女子高校生(当時16)が下校後行方不明になり、その夜、狭山市の自宅に身代金を要求する脅迫状が届いた。翌日、脅迫状にしたがって家族のひとりが犯人と接触するが、張り込みの警察官は犯人を取り逃がしてしまう。そして、2日後に生徒が遺体で発見された。

 このように、事件の核そのものは女子高校生の誘拐殺人、脅迫未遂であったが、問題はこの事件の捜査にあった。5月3日に警察は早くも被差別部落の青年たちの出入りが多い養豚業者方で、青年たちの名前を調べ、翌4日にはこれらの人びとの筆跡集めを行った。きわめて早い時期に捜査は被差別部落にしぼりこまれていたのであり、このような被差別部落への見込み捜査によって、5月23日石川さん(当時24)が別件で逮捕された。逮捕後、警察は「自白すれば10年で出してやる」という嘘の約束や脅しで虚偽の「自白」をさせ、それを安易に受けいれた検察が殺人容疑で石川さんを起訴、さらには浦和地方裁判所がわずか6カ月という短期間で結審し、翌1964年3月11日に死刑という重大な判決を下した。

 1964年9月10日の控訴審第1回公判で石川さんは犯行を否認して無実を訴えたが、1974年10月31日、東京高裁は死刑判決を破棄して無期懲役を宣告、1977年8月9日に最高裁判所が上告を棄却したことから、無期懲役刑が確定した。その後も再審請求、特別抗告が行われてきたが、数々の新証拠が提出されているにもかかわらず、事実調べもなされないまま棄却され現在に至っている。1994年に仮出獄して故郷の狭山市に帰った石川さんが無実を訴え再審の闘いを続けているように、狭山事件の「ほんとうの意味での決着はいまだについていないのである」(2)。

 

「狭山事件」と文学者たち

 この「狭山事件」について、部落解放同盟は、警察、政府、自民党が「狭山事件」の2カ月前に起きた「吉展ちゃん誘拐事件」に続いて犯人を取り逃す失態を演じた警察への信頼と国家の威信をとりもどすために、「部落民ならやりかねない」という世間の部落に対する偏見を利用してデッチあげた事件であり、「部落差別を利用した国家権力による冤罪事件だ」(3)と主張し、部落解放運動の最重要課題の一つとして運動を展開していった。実は本格的に組織をあげて取り組みだしたのは、事件から7年後の1970年に入ってからであり、そのきっかけを与えたのが、1969年11月14日の部落の青年たちによる「浦和地裁占拠」という浦和地方裁判所のやり方に実力で抗議した行動であり、もう一つが部落解放同盟中央本部機関紙『解放新聞』の主筆であった作家・土方鉄の「石川救援に全力を 『狭山差別裁判事件』の意味するもの」(『解放新聞』472号、1970年1月5日)という記事だった。土方は次のように述べる。

   ファッショの国のなかで、司法権力を相手に、果敢に闘った経験をもつわれわ 

  れは、いま、差別によってとらえられ、差別によって犯人にしたてあげられ、差

  別によって死刑囚にされている、われわれのきょうだい石川君を、われわれの手

  に奪還する闘いをこそ、わが部落解放同盟は第一義的に闘わねばならないのであ

  る。

      (略)

   一人の無実の部落兄弟を見殺しにしていて、なんの部落解放運動であろうか。

  部落解放運動は、住宅要求や、生活資金要求のなかにのみあるのではない。石川

  君への差別裁判は、全国六千部落三百万人ことごとくに対する権力の挑戦であ

  り、これをはねかえし、石川君を奪還することは、いま部落解放運動にとってな

  によりも重大な緊急の課題である。

 土方の指摘は、高度経済成長下で開発から取り残され周縁化されている被差別部落の状況をふまえて取り組まれている環境改善要求や住宅要求を中心にした部落解放運動に対する警鐘であり、土方と同じ時期に、狭山闘争を牽引した西岡智が述べているように、こうした事業の獲得を目的とするような部落解放運動の変質を「大きく転換させて、『差別に対する徹底した怒り』を中心にすえた解放運動を、狭山事件にたいする運動のなかで築きあげようとした」(4)ものであった。こうして、部落解放同盟は、第25回全国大会(1970年3月2日~3日)で〈狭山差別裁判糾弾方針〉を提起し、この方針に基づいて〈特措法具体化要求・狭山差別裁判反対・部落解放国民大行動〉が取り組まれるなど、これ以降、部落解放運動は大きな盛り上がりをみせていった。

 この動きに呼応して、「石川さんをこのように追いやったのは国家権力である

が、そうした権力の理不尽を許してきたのは、私たち一人ひとりなのである。部落差別を許さないたたかいは、私たち個々の人間の問題として問われている。」(柴田道子「狭山差別裁判と私たち」『婦人民主新聞』1973年9月14日)として立ち上がったのが文化人や学者であった。この発言をした児童文学者・柴田道子は、長野県の被差別部落をまわり、名著『被差別部落の伝承と生活 信州の部落古老聞き書き』三一書房、1972年)を出版したことで知られているが、柴田らとともに、狭山差別裁判についてとくに深い関心を示したのが部落解放運動における文化運動、文学活動に積極的に発言してきた野間宏であった。野間が「狭山事件」に関わるようになった経緯について、西岡智は、次のように証言している(『荊冠の志操―西岡智が語る部落解放運動私記』(つげ書房新社、2007年、153―154頁)。

   野間宏さんを『狭山事件』に関わるように説得したのは私だ。フランスの文豪 

  ゾラがドレフェス事件で世論を動かしたことにならったことなのだ。(略)日本

  では1949年8月の松川事件で作家、広津和郎が1954年から4年半にわた

  り、「中央公論」に「松川事件第二審判決批判」を書き、1963年9月に仙台

  高裁差し戻し審で被告全員無罪を勝ちとった。宇野浩二も『世にも不思議な物

  語』を書いている。これにならって「狭山」で野間を引っ張り出そうと考えた。

  野間さんは京都大学を出てから大阪市役所に入り、社会部福祉課に配属され、融

  和事業を担当し、西成などの部落に入り、松田喜一さんらと知り合い、彼をモデ

  ルにした『青年の環』を書いて、部落問題をわかっている人だからね。

こうして西岡の粘り強い要請に「『狭山』は私がやらなければいかんでしょう・・・」(同前)と応じた野間は狭山での弁護団による現地調査にも参加し、石川さんにも面会し、雑誌『世界』に「狭山裁判」を1975年から死去する間際までの16年間、191回、四百字詰原稿用紙で6600枚にわたる大作を書きつづけた。この「狭山裁判」の連載は、野間自身が「この狭山裁判にかかわる私の仕事は、私の長編『青年の環』と深いところでつながっており、それは切断することが不可能なつながりの中にある。」(5)と述べているように、「戦後文学の代表作であるのみならず、部落というアジア的生の環境と歴史に深く根を下ろした20世紀の世界文学の代表作の一つ」(6)と評される『青年の環』(1947年から1970年まで23年間をかけて制作された全6部8000枚の長編小説)の問題意識の延長上に書かれたものであった(7)。

 野間は1974年4月に発足した日本AA(アジア・アフリカ)作家会議の

議長でもあったが、野間とともにアジア・アフリカ文学運動の重要な一翼を担

ったのが作家・文芸評論家の竹内泰宏であった。その竹内が「フィクションを

通じて差別裁判に迫りたい」(8)として1976年に書きあげた1500枚に

及ぶ長編小説が『人間の土地』(上・下)(河出書房新社)であった。次回は、

この『人間の土地』のあらすじを紹介したうえで、この小説と狭山事件、狭山

差別裁判とのつながりを見てみることとする。

 

(1)以下の「狭山事件」の概要については、部落解放・人権研究所編『部落問題・ 

  人権事典』(解放出版社、2001年)の「狭山事件」(同書、394―400

  頁、安田聡執筆)、師岡佑行『戦後部落解放論争史』第5巻(柘植書房、198

  5年、31―130頁)参照。

(2)師岡佑行『戦後部落解放論争史』第5巻、前掲、31頁。

(3)西岡智『荊冠の志操―西岡智が語る部落解放運動私記』(つげ書房新社、20

   07年、118頁)。

(4)座談会「『狭山差別裁判』は僕らを裁く」(『部落解放』第7号、1970年

   4月、36―40頁)。

(5)野間宏「狭山裁判とわが小説」(『新潮』1977年4月号。前掲『荊冠の志

   操―西岡智が語る部落解放運動私記』156頁から重引)。

(6)部落解放・人権研究所編『部落問題・人権事典』(前掲)の「『青年の

   環』」、同書、577―578頁、竹内泰宏執筆)。

(7)前掲『荊冠の志操―西岡智が語る部落解放運動私記』156頁参照。

(8)竹内泰宏・饗庭孝男「対談・人間の土地をめぐって」での竹内の発言(竹内泰

   宏『人間の土地』上巻、河出書房新社、1976年の付録)。