「適切な解説」の必要性

 島崎藤村の『破戒』については、「近代日本のリアリズム文学の歴史にとっても、何度もそこへ立ちかえるべき文学的源泉にほかならない。」(平野謙「『破戒』について」新潮文庫版『破戒』解説)という評価がある一方、解放文学の立場からは、藤村自身が強く持っていた被差別部落(以下、部落)に対する差別意識が作品に現われていることから、「『破戒』が名作といわれ、読まれれば読まれるほど、ありがたくないのだ。」(土方鐵『解放文学の土壌―部落差別と表現―』明石書店)という厳しい評価が行われている。

私自身は、藤村の差別意識の問題も含めて、『破戒』は明治日本から帝国日本へと転位していく世紀転換期の時代相がリアルに描かれているという意味で、重要な史的文献としての価値があると思っているが、北小路健が指摘しているように、「『破戒』には、たしかに差別小説としての一面がある。しかし、適切な解説とともに出版されるのであれば、むしろすぐれた反差別小説ということができるであろう。」(「『破戒』と差別問題」新潮文庫版『破戒』解説)という意味があるのも事実である。そこで、今回から何回かに分けて、私なりの「適切な解説」を行ってみたいと思う。

 

第1回 『破戒』における藤村の「同情」の問題について

 1903年、「近代黒人解放運動の父」と呼ばれるW・E・B・デュボイス(1868―1963)は、アメリカ社会における人種的な分断について、「二十世紀の問題は、皮膚の色による境界線の問題―すなわちアジア、アフリカ、アメリカ、海洋諸島における色の黒い人種と色の白い人種との間の関係である。」(1)と語った。19―20世紀転換期の日本においては、デュボイスが指摘した問題は、部落民に関する人種主義的な言説の氾濫という形で噴出していた。デュボイスの発言から3年後に自費出版された島崎藤村の『破戒』は、そのような日本社会における部落差別問題の状況が色濃く反映された作品であった。

周知のように『破戒』は、信州の部落出身の小学校の「首座教員」(現在の教頭)・瀬川丑松を主人公とした小説で、彼が差別事件に遭遇する中で、父に教えられた「世に出て身を立てる穢多の子の秘訣」として「身の素性を隠せ」という「戒」を守ることを誓いつつも、「我は穢多なり」と宣言して闘っている猪子連太郎の思想に傾倒することによって、「素性」を告白するか、告白しないか煩悶する。しかし、校長、郡視学、その甥の教員による丑松の「放逐」のための「身元あばき」が進むとともに、猪子が暴漢によって殺されるに及んで、丑松は父の「戒」を破ることを決意する。そして、生徒の前で「私はその卑しい穢多の一人です」と告白し、隠し続けてきたことを「許して下さい」と言い、板敷の上へ跪く。この時に救いとなったのが、零落した旧士族で同僚の教師であった風間敬之進の娘・志保と師範学校以来の友人の教師・土屋銀之助であった。その後、進退伺を出して休職となった丑松は、猪子の友人の市松弁護士から、猪子の遺骨を守って、猪子の妻と一緒に東京へ行って貰いたい、と依頼されるとともに、「テキサス」での農業計画への参加の話にも心を動かされる。こうして信州の飯山を去って、丑松は東京に向う。

このような内容の『破戒』について、自然主義文学を代表する作家の一人、田山花袋は、藤村が小説に転向した最初の作品である『破戒』について、「その出版された時には、非常な期待と同情とで迎えられたものであった。」(2)と書いている。このような評価はその後も行われ続け、たとえば、プロレタリア文学運動の指導者・蔵原惟人は、藤村が「丑松や蓮太郎や敬之進等、所謂下層社会を代表する人々に対して満腔の同情を払い」(3)と論じている。

 

 

しかし、刊行からわずか半月後の1906年4月9日、志賀直哉は藤村に傾倒していた画家・有島生馬に宛てた書簡(4)で、これとはまったく違った感想を述べている。志賀は「破戒を読むだ、/藤村氏は常々君の尊敬してる人だから僕も充分尊敬をハラツて読むだ、/然し一言にしてこれをいへば失望の方だった」として、主人公の部落出身の瀬川丑松について次のように書いている。

   丑松なんていふ男は、他の小説家の目には到底主人公となる男でないのを藤村氏が、とつて主人公としたのは偉いと思ふ、然し尚慾をいへば、僕は丑松は主人公として最も大切な資格を失つてゐはしないか考へる、

   成程主人公は平凡な人間でいゝ、好男子でなくても差支えない、然しどうしても無ければならない要素は「同情すべき」といふ事である、何にも可哀想でなくてもいゝが同情すべき男でなければならぬ、ツマリ。其人物が同情の出来る人でなければならない。

   丑松はえたでなくても充分同情の出来る男でなければならないと思ふ、僕は読むでゐて丑松はえたなるが故に同情するが普通の人間だったら同情しないだらう、人物の点では銀の助の方が遥かに同情が出来る、それから、モウ一度見直さねばいへぬ事だが、一体丑松はえたなのか?えたでないのか?藤村氏は種族としてのえたに同情したのか。えたとして。いやしめられてゐるえたでない人に同情したのか、その辺が少し不明だ。不明だといつては悪いが。僕には解らなかった。丑松は本当はえたぢゃないんだらう?親のいつた事だとかいつて。そんな事が一寸見えたやうな気がする。

 このように、志賀は部落民に対する藤村の「同情」と丑松の造形の問題について厳しく指摘した後、作品の主題である「破

戒」についても次のように書いている。

   僕は破戒が此本の眼目だと思ったので破戒をする時はどんなに勇ましからうと予期してゐた為に丑松の破戒が如何にも意気地のないものにしか思われなかった。あゝなれば自分で破戒しなくても、自然戒めは破られる所だった、彼はウマイ時破戒して自ら良心をアヤシた。

   一体何故丑松は「平等」といふ事をいはなかつたらう、(略)平等といふ事を考えて社会人を厭倒(ママ)する位ゐの事をセメテ空想でもしてくれたらいゝのに。四時人を羨むだり自分を儚むだり羨むでも儚むでもいゝから。破戒したらキツパリ其んな事がないやうになつて欲しかった。これは僕の邪推かも知れないが、丑松の破戒は只破戒で、それ以上殆むどなんにもない。只父の戒めを破つた為に秘密がなくなり、大に楽になつた、人と交はるのに恐ろしさが消えた位である。(其の中に何らかの大きな自覚でも来るのかと実は想つてゐたのさ)・・・・・

『破戒』の出版史を整理した宮武利正の労作『「破戒」百年物語』(解放出版社、2007年)に、志賀のこの書簡が部分的に紹介されていたので全文を読んでみたが、志賀が藤村と『破戒』の致命的な問題点をいかに的確に読み取っているかに感服させられた。この志賀の指摘もふまえながら、次回から、これまで多くの人が論じてきた部落差別問題に関する藤村の認識と『破戒』との関連、丑松の造形、結末の「破戒」の場面と「テキサス行」等々について考えていくこととする。

 

(1)W・E・B・デュボイス『黒人のたましい』(木島始/鮫島重利俊/黄寅秀訳、岩波文庫、1992年、30頁)。

(2)田山花袋『近代の小説』(近代文明社、1923年、153頁)。

(3)蔵原惟人「現代日本文学と無産階級」(『文芸戦線』1927年2月)。

(4)志賀直哉「有島生馬宛書簡」(1906年4月9日。『志賀直哉全集』第17巻、岩波書店、2000年、39頁、40 

   頁)。