水平社創立宣言の起草者であり、部落解放運動、平和運動の活動家であると同時に、劇作家でもあった西光万吉が1923年10月に中外日報社から刊行した『戯曲二編 毗瑠璃王 浄火』(二刷以降は『浄火』と改題)のなかの一編、「大都市に近く、水平社のある大部落内の夏の夜の出来事」を描いた戯曲『浄火』の批評の第2回目です。
第2回 水平社運動の表現
劇の初めの縁台将棋と盆踊りの場面に続いて、この晩に開かれていた演説会に参加していた「油じんだなっぱを着た25、6の青年、駒太郎」が登場する。
「疲れてはいるが、なんとなく興奮している」駒太郎は、演説会で「金公と辰とが検束された。」「今夜なんか、かたっぱしから中止やさかいな。」と、警察による締め付けの強化を、そこにいる人たちに語る。
駒太郎に続いて、「―文明よ、文明よ、ようろっぱ人の誇りにして、又、無辜の民の骨堂よと罵った、黒人るね・まらんのこのことばは―」「―実に、われわれ無産階級にとっても―」と呟きながら、「ちじれ毛の20あまりの青年。病弱であるが精悍らしい」勘四郎が登場し、そこにいる人たちから「勘四、おまえとこの兄きも、今夜検束された」と呼びとめられる。
また、この夜、演説会とは別に、地主である「吉田のごろ」に対する差別発言に対する糾弾が行われていることも話される。その中には米騒動の時に6年の刑を受けて、「4年つとめて帰してもろた」甚三も参加しているが判明する。さらに、麻裏の職人である勘四朗が「組合をこしらえた」ことが話され、それに関連して、「下駄職工組合」結成の話や、「(ぶるじょあーじを)糾弾せなければ、とうてい、むさんかいきゅうは、楽に日ぐらしをすることは、できないのであります。まるくす、まるくす。」「まるくすてなんや。」「ロシアの学者や」というようなことも話される。
そんななかで、体の弱い勘四郎に好意をもつ“おまつ”が、滋養のため
に、なぜ毎朝屠場で牛の血を飲みに来ないのかと迫る。そんな“おまつ”
を「そらかなん、まるで鬼やがな。ハハハ、鬼の女房に鬼神のおまつ」と
からかった亀造に、“おまつ”は「ハハ、どん亀おやじ、黙れ。血飲むもん
が鬼やったら、肉食うもんはなにや。」とやり返す。
周知のように、全国水平社創立大会では「吾々に対し穢多および特殊部落民の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾をなす。」という「決議」が行われた。前回に触れた「舳松水平社創立演説会」の1カ月後の1922年9月21日には、指導者・泉野利喜蔵を先頭にして、堺開口神社の相撲大会の差別事件で差別者を保護した堺警察署に50名でおしかけ抗議するとともに、主催者・泉州日報とも交渉し、謝罪解決を勝ち取る等(1)、この「決議」が忠実に実行されていた。
さらに、泉野は、若くしてマルクス主義の影響を受けて、「部落問題を今日の階級社会の産物としてとらえ、この階級制度のないかぎり部落民の解放もありえないと考えていた」(2)ことが知られているが、当然、舳松村にもその考えが広められていたものと思われる。『浄火』の中で登場人物たちが語る演説会、糾弾、麻裏職人組合、マルクス、無産階級、社会主義は、このような舳松の運動の状況を反映したものであった。また、勘四郎が呟いていた「黒人るね・まらん」とは、1921年に小説『バトゥアラ』で仏文学賞のゴンクール賞を受賞したフランス領ギアナ出身の黒人作家ルネ・マランのことで、『バトゥアラ』は翌年には改造社から刊行され、多くの版を重ねていた(23)。勘四郎が共感して呟いていたのは、植民地行政のもたらした荒廃を告発する『バトゥアラ』の「序文」の中の言葉で、西光はそのような勘四郎を登場させることで、抑圧に対する不正感を先鋭化させた若者が部落の中に出現してきていることを示したものと思われる。
演説会と糾弾の内容が明らかにされておらず、同じ夜に開催されていること、「大都市に近く、水平社のある大部落」にもかかわらず一度も水平社が登場しないこと等の点に違和感があるが、このような表現は、部落の現実と闘争の現場を熟知していない者でなければ書き得ないものであり、それは糾弾への応援を描いた場面でさらに深められている。
先の場面の後、一人の青年が走ってきて、通りがけに、「おい、皆、今、吉田のごろで衝突やいうてるで。」「今、子供が帰ってきてそういうてる。」と、そこにいる人たちに糾弾が紛糾していることを告げる。それを聞いた男たちは「おれも、いてきたろ。」と次々と駆け出し、将棋をしていた男たちも「おれも、いたろ」と立ち上がる。勘四郎も一緒に行くが、その時に、「おまつ 勘四、おまえも何なと持ってるか。/勘四郎 (腹まきへ手をあてて)もってる。」という会話が交わされる。勘四郎も含めて男たちが老人だけを残して、どやどや行ってしまい、店にいた女たち四人が、表へ出てその後を見送った後に、「おれもいたろ、ちょっといてくるわ。」(4)と去って行った“おまつ”のことが話題となる。
老人 まったん、おもしろいおなごやな。
おりん ハハハ、頬かむりして走ってるで。
ゆきの あ、角の軒から、何やら棒みたいなものたげていたで。
おりん えらいさかいな、あのおなご。屠場でも大将やさかいな。どんなえらい牛でも、まったんに鼻おさえられたら、いっぺんにふるいあがるそうやな。
ひさえ ほんまに鬼神のおまつや。
全国水平社が創立されて翌年の1923年に起きた奈良県における水平社と大日本国粋会・地域住民連合会との一大武力抗争事件に見られるように、差別糾弾は差別した側の開き直りなどによって紛糾し、暴力を伴うことがあった。しかし、その暴力は初めから部落民の暴力だったのではなく、差別する側の暴力が増大し、部落民の心を引き裂きながら差別する側へ向きを変えたものであった。
西光は、糾弾の応援に次々と駆けつける様々な人たちを登場させることで、不正義に対する闘いに動き出している部落の“いま”を鮮明に描くとともに、差別に対する闘いが「封建的身分関係に依る圧迫の為に、身分的共同利害と共通意識のヒモによって強く結ばれている」(5)という部落そのものの特質に深く根ざしていることを的確に表現していた。とりわけ、その中でも強烈な存在感を示しているのが“おまつ”である。中上健次は徳田秋聲の『あらくれ』(講談社文芸文庫)の主人公“お島”について、「こんなにピチピチ跳ねる女、当今の小説家の誰が書けるか?」(6)と語っているが、部落の中にしばしば実在しそうな“おまつ”のような「こんなにピチピチ跳ねる女」は、舳松村に居を定めた西光でなければ書けなかったであろう。
注
(1)渡辺俊雄「泉野利喜蔵の軌跡」(前掲、110頁)。泉野は、関東大震災
後、高橋貞樹・小宮山富恵夫妻を舳松村で世話し、社会科学の研究会を
開いたりして、青年活動家を数多く育て、全国水平社青年同盟には参加
しなかったが、その下地をつくった、と言われている(同前、97頁)。
『浄火』に登場する「勘四郎」も、そうした青年活動家の一人であった
ろう。
(2) 同前、97頁。
(3)砂野幸稔「黒人文学の誕生:ルネ・マラン『バトゥアラ』の位置」(日本フランス語・フランス文学会編『フランス語・フランス文学研究』63、1993年)、古川博巳/古川哲史「日本人と黒人の接触・交流抄史―戦前篇―」(『天理大学人権問題研究室紀要』第4号、2001年)参照。
(4)“おまつ”が使用している自称の「おれ」は、平安時代末期頃から男女共用で使用されており、当初は丁寧な語であったものの、江戸時代末期以降、「野卑な語」として東京や西日本では女性が避けるようになったために使われなくなった語で、現在でも、北関東、北陸、東北では年配の女性が使用するという(米田達郎「人称詞オレの歴史的変化」『大阪工業大学紀要』第61巻2号、2017年1月)。いわゆる「部落弁」というのは、私の知る限りでは、創られた特殊な語ではなく、一般的には使われなくなった古語である場合が多い。「おれ」も、部落では「野卑な語」として忌避するような価値観が定着していなかったために、女性も使用し続けていたものと思われる。
(5)全国水平社常任中央委員会編『部落委員会活動に就いて―全国水平社運動を如何に展開するか―』(部落問題研究所編刊『水平社運動史の研究』第4巻、資料篇下、1972年、225頁)。
(6)中上健次「ジャズが聞こえてくる」『週刊プレイボーイ』1978年7月11日(『中上健次エッセイ撰集』恒文社21、2001年、113頁)。