水平社創立宣言の起草者であり、部落解放運動、平和運動の活動家であると同時に、劇作家でもあった西光万吉が1923年10月に中外日報社から刊行した『戯曲二編 毗瑠璃王 浄火』(二刷以降は『浄火』と改題)のなかの一編、『浄火』の第3回目です。

 

第3回 闘争の文学

木村京太郎が『水平社運動の思い出』(部落問題研究所、1975年)の中で語っていたように、舳松村は「大正7年8月の米騒動には多ぜいのギセイ者を出している」。『浄火』においても、糾弾の応援に駆けつける場面の前に、この日の糾弾の相手であり、米騒動の時に村長でもあった「吉田のごろ」のところへ押しかけて検挙され、懲役刑に処せられたことが、野間宏が「まったく他のところにない、生活的な文化的な活気」(1)と表現したような語り口で話される。

 

源二郎 あんな、あほくさいこたなかったな。えんりょしていたおれたち

がやられて、やりきった人間が皆のがれてな。石やんかて、うまい

ことやった方や。

石造 ハハハ、忍術の名人や。

源次郎 甚公でも、ごろの家であいつの足かいただけで六年や。ごろのやつはあの時分村長してたさかい、この村の人間のことなら、あることないこと、しゃべったにちがいない。

太一 ハハハ、今夜は皆でやっているやろ。

豊吉 しかし青年会の会長や、軍人の役員もいてるさかい、ええかげんにしてるやろかい。

 

この話に出て来る「甚公」とは、劇の舞台となっている「亀公の店と、その隣の甚三の家の表」の甚三のことである。『浄火』の後半では、この甚三(三十代)と妻“おきし”(二十代)が米騒動における弾圧の傷跡を象徴する人物として取りあげられ、次のように描かれる。

 

甚三が「米騒動の時も、ごろのことで」四年も入獄している間、妻の“おきし”は、部落からはなれた所にある地蔵堂で、三人の子どもを養うために身を売っていた。甚三が出所して帰ってきた晩に、“おきし”はそのことを打ち明け、その時は甚三も了解ししていた。しかし、「帰った晩に、あんなこといえたことや」、「あんな水くさいことは、ほかの男は知らんけど、おれはきらいや。」と次第に気持ちが荒んでいき、飲めなかった酒も飲みはじめ、“おきし”に暴力をふるうようになっていた。

この晩の「吉田のごろ」に対する糾弾が紛糾したのも、甚三が「ちよっと、ごろであばれた」からでもあった。そして戻ってきた甚三が“おきし”をまた苛みだしたので、そこにいた“おりん”から「陽気や浮気でしたことでなく、子供かわいさにしたことなら、そのほうがあたりまえやないか。そしておまえも、その時、なっとくして、よういうてくれたって、よろこんでたやないか。」と諌められる。そうしたなかで、甚三は「おきしはかしこいさかい、地蔵堂で淫売するし、おれはばかやさかい、地蔵堂をやくのや。」と話す。

そこへ四、五人の刑事と巡査が通りかかり、青年会へ行く道を甚三に尋ねる。その後に青年が「えらい、すまんけどな、すまんけど会場まで来てんか」と甚三を呼びにきて、甚三が「おりやん、いてくるさかい、あとはたのむで、おきし、また、いてくるさかいな。」「子供をたのむで。」と「悄然として、青年とともに行く。」というところで幕が下りる。

 

戦後がはじまったばかりの時期に書かれた「略歴と感想」の中で、西光は米騒動について、「全国的な米騒動も私の心に大きな衝動を与えた。なぜ、各地の部落民がことに烈しく乱暴したか、また、いかに政府がそれを冷酷無情に弾圧処刑したか。」(2)と述べている。しかし、『浄火』では「部落民がことに烈しく乱暴した」原因と推測される当時の村長で地主であった「吉田のごろ」の苛酷な搾取や差別のことは一切触れられていない。その代わりに焦点をあてられているのが“おきし”の売春に悶え苦しむ甚三の姿である。

煩悶の原因となっている売春の舞台となった地蔵堂は、部落からはなれた所にあるとはいえ、朝にはお参りする部落の人がおり、「ひるまは村じゅうの子供のええ遊び場所」であった。「身分的共同利害と共通意識のヒモによって強く結ばれ」、共同体のつながりを前提にした考え方をする人たちが多かった当時、甚三、“おきし”が、部落にとって重要な場所である地蔵堂で身を売ったり、地蔵堂を放火したりするという『浄火』の設定には無理があるように思えてならない。もし、実際にモデルがあるのなら、相互扶助の生活文化が色濃く息づいていた部落で、“おきし”がそこまで追い詰められていった状況を詳しく書かなければ、説得力をもたないのではないだろうか。

西光のこのような水平社運動の課題から個人の煩悶の問題への視点の移動は、『浄火』とともに同書に収められている戯曲『ビルリ王』にも見られる。『ビルリ王』は、インドのコーサラ国王と不可触民センダラの娘との間に生まれたビルリ王の差別迫害、復讐をテーマにしており、講演のなかでも西光はしばしば取りあげている。木村京太郎によれば、「この物語りをはなす西光さんは、“ビルリ、旃陀羅の子ビルリよ、おぼえてろ、わすれるな、だれがゆるしても旃陀羅は、その宿命というものからゆるされることはない。旃陀羅の子ビルリよ、おぼえてろ、忘れるな・・・“といった侍臣の言葉を、呪いの炎のように吐き出されるのであった。西光さん自身を死の寸前にまで逐いやった差別の痛苦を、ビルリ王物語を通して、同じ差別に悩む私たちに訴えられるのであるから、聴くものも熱狂して『そうだ、おぼえてるよ、忘れるもんか』の声が聴衆の中から湧き起こり熱狂せんばかりになった。」(3)という。戯曲においても、前半はこのような展開で話が進んでいくが、後半になると自らの「呪われた運命」に観念的に悩み苦しみ、出口が見出せないままに「暗い」「暗い」とくりかえし述べるビルリの煩悶がテーマとなっている。このように、西光にとって煩悶の問題は切実で重要なものであり、『浄火』における視点の移動も、そのことを反映したものであったと思われる。

さらにまた、“おきし”や地蔵堂と関係する人物として登場する「生れつき頭部も顔面もただすべらとして、一本の毛もなく眼もなく、鼻もなく、きわめて小さな耳と口だけのやせた男」である善六の取り上げ方についても大きな問題がある。善六は、もともとはこの晩に糾弾をうけている「吉田のごろ」の家に生れ、「ごろと善公は兄弟」であったが、地蔵堂に捨てられ、「ほんまに地蔵さん」みたいな部落の“おばん”に拾われ育てられた。しかし、西光の善六への視線は、障害者の立場にたって善六の人生そのものを見つめているとは到底考えられず、登場人物の「あんな因果な子」「あんなこわい人間」という発言が示しているように、むしろ、障害者の社会的排除を所与の事実として、「吉田のごろ」とその家の非道さを浮き上がらせる装置として造形されたもののように思われる。

しかし、このような問題を内包しつつも、水平社の創立により顕在化した新たな部落の現実を描いた『浄火』は、「部落は吾々の唯一の闘争の基本的舞台であり、吾々の組織の基礎は部落である。」(4)という全国水平社の運動論を文学によって具現化したという意味において、本来の意味での闘争の文学であった。このように考えると、『浄火』は、大阪・浪速区の部落を「炎の場所」として結晶化させた野間宏『青年の環』(第6部)の先駆けともいえる作品として位置づけることができるだろう。

この『浄火』も含めて西光の書いた戯曲のうちで上演されたのは、幕末に尊王攘夷を掲げて大和国五条村で挙兵した天誅組を取りあげた「天誅組」(1923)だけであった。もし、『浄火』が上演されていたら、演劇だけでなく、その後の文学における部落差別問題に対する表現も大きく変わっていたと思われるだけに、実に残念でならない。

 

(1)野間宏「被差別部落は変わったか―大阪市内の部落を再び訪れて」『朝日ジャーナル』1969年5月~6月(野間宏評論・講演・対話集『解放の文学その根源』解放出版社、1988年収録、162―163頁)。   

(2)西光万吉「略歴と感想」(『西光万吉著作集』第一巻、濤書房、1971年、87頁)。

(3)木村京太郎『水平社運動の思い出』下(部落問題研究所、1975年、155―156頁)。

(4)全国水平社常任中央委員会編『部落委員会活動に就いて―全国水平社運動を如何に展開するか―』(部落問題研究所編刊『水平社運動史の研究』第4巻、資料篇下、1972年、225頁)。