闘争の文学―西光万吉の戯曲『浄火』

現在の奈良県御所市の被差別部落(以下、部落)で生れた西光万吉(1895~1970)は、水平社創立宣言の起草者としてよく知られているが、部落解放運動、平和運動の活動家であると同時に、劇作家でもあった。西光は生涯に30近い戯曲、シナリオを書いたが、1923年10月に中外日報社から刊行された『戯曲二編 毗瑠璃王 浄火』(二刷以降は『浄火』と改題)のなかの一編、『浄火』は、部落の真の姿をはじめて語り、そして部落民衆を表現する文章をはじめて作ったものであり、西光の作品の中では最高のものとして評価できると思う。今回から何回かにわたって、この戯曲『浄火』について考えてみたい。

 

第1回 部落のリアルな描写 

それまで部落を取りあげた文芸作品は、部落民の悲惨、絶望、呪詛、反逆を表現したものが多かったが、水平社運動が部落民衆と結合して燎原の火のように各地に広がり、民衆の意識が前進するにつれて、文学の表現はこうした叫びや告発を越えて、闘争の文学の段階へと進みはじめた。その代表的な作品としてあげられるのが『浄火』である。

この『浄火』が収録されている『『戯曲二編 毗瑠璃王 浄火』は、全国水平社第2回大会(1923.3.2~3)の壇上における西光の舌禍事件(奈良県の大正小学校差別事件の糾弾で逮捕された木村京太郎らを「名誉ある囚人、われらの尊い犠牲者」と紹介したことが「犯罪人」を賞賛したとして治安警察法違反で罰金50円を科せられた事件)の罰金をつくりだすために、友人の荒木素風、三浦大我(参玄洞)らの助力で刊行されたものであった(1)。戯曲という形式を採っているのは、西光が民衆劇学校(1923年開設、沢田正二郎を校長、倉橋仙太郎を主催とする演劇塾)や新民衆劇団(沢正、倉橋を指導者とする劇団)の旗揚げ公演用の脚本に「天誅組」を書くなどしたことからすると(2)、その公演用として考えていたのかも知れない。

さて、この1場1幕の現代劇『浄火』の舞台は「大都市に近く、水平社のある大部落」となっているが、大阪府泉北郡舳松村のことである。舳松村について、木村京太郎は『水平社運動の思い出』(部落問題研究所、1975年)で「舳松村は当時すでに戸数800、人口3500人という大部落で、大正7年8月の米騒動には多ぜいのギセイ者をだしているが、それだけ貧乏人が多い。そこには大きな屠場(俗称とんこつ)があって若者の気性も荒かった。」(3)と語っているが、大阪府救済課「部落台帳」(4)によると、1917年当時、戸数537戸・人口2507人を数える大部落であった。職業を見ると、下駄靴直が190戸(35.4%)ときわだって多く、これに下駄表職94戸(17.5%)、農業60戸(11.2%)と続き、このほかにも、作品にも登場する「屠夫」が5戸いる。

 この舳松村においては、1922年8月5日の大阪府水平社結成後間もない8月20日に、地元の明願寺で「舳松村水平社創立演説会」が開かれているが(5)、その前の4月23日にも、全国水平社の本部員・泉野利喜蔵が出身地の舳松村で「部落改善促進運動演説会」名義をもって水平社宣伝演説会を開催している(6)。このことについて、『水平』の「水平運動日誌」には「4月23日午後7時より大阪府泉北郡舳松村に於て演説会を開く。出席者西光、駒井、平野、輪地、米田、泉野、山田、仲西女子及び大分県別府町的ケ浜の篠崎蓮乗師の焼打事件真相報告等あり。来会者約500名盛況裡に11時40分散会」と記されている。

 泉野と西光とは全国水平社創立の本部役員として各地の水平社創立に一緒に東奔西走し、演説会ではいつも「名コンビ」であった(7)。こうした泉野との繋がりに加えて、舳松が「当時の本部活動家は、運動のため親譲りの財産を費い果し、親類、友人に迷惑をかけたりしながら東奔西走していましたが、空き腹で、電車賃がないために、二、三里の道を徒歩で動き廻るのは普通のことでした。それで、とにかく舳松へ来れば寝るところと、食うものもあり、帰りの電車賃を貰える事も出来たものです。」(8)というようなアジール(避難所)でもあったことから、西光は1923年6月頃から活動の拠点を舳松に定め、「舳松居住は昭和3年の三・一五検挙時までつづき、同『身上調書』の住所は堺市舳松町舳松小学校前」(9)となっている。そうしたことから、1923年7、8月頃に執筆されたと推定されている『浄火』には(10)、その当時の舳松村の生活、仕事、運動の様子が巧みに織り込まれており、作品の厚みを増している。以下に、それらの解説も交えながら、作品を見てみることにする。

『浄火』は、次のような場面から始まる。

   時はこの大部落に水平社が結成された後のある夏の夜。所は部落で酒、煙草、菓子等を売る亀造の店とその隣の甚三の家の表。

軒にすえられた縁台で将棋をさす人とそれを見学している人がおり、その中には「男のように短い襦袢を来て長靴をはき、腰の皮帯に屠牛場で用いる大きなナイフをさした“おまつ”がいる。そして、その縁台の前では、はるかに聞こえる盆踊りの太鼓の音に合わせて、「おどれ、おどれエと、三十までおおどれ。三十すぎたら、こおがおとる。」「どんどん、は、どんどん、は、どん。かっからかっかっか、いや、は」と、青年と子どもの3人が歌い踊っている。

先の「部落台帳」で見たように、舳松村では「下駄直し」の仕事が多かった。1912年に舳松村に生れ、「表をあむ」などの詩で知られる阪本ニシ子は、「昔は下駄直し。下駄の歯入れたり、鼻緒すげたり、あんな仕事やねん。男の人はその仕事行くわけや。行っても、雨降ったら休みやな、人の軒で仕事さしてもらうから。雨降ったら休みになるし、行ったかて仕事あるやらないやらわからへん。」「仕事に行ったかて仕事ない。それにつけて、みんな昼からうちの方、将棋ようはやった。あの阪田三吉さんもそうだんねん。あれ、見て習いはってんで。あの人も学校へ行ってしまへんで。」(11)と語り、「盆踊り」についても、「盆いうたら、盆おどりや。うちらのとこではな、いまみたいに、あんなん、ヤグラくんで、まわりをぐるっとまわるおどりやなかった。『辻おどり』ちゅうて、男と、女が、それぞれ仮装したりしてな。むらの道を、めいめい、うたをうとうて、おどりまわんねん。そらぁ、たのしかったで。(略)うたはな『ドンデンカッカ』いうねん。」(12)と語っている。

 このように、西光は、「縁台将棋」と「盆踊り」(ドンデンカッカ)、「屠場」の職人を最初の場面に登場させることで、この「大都市に近く、水平社のある大部落」の特色を瞬時に表現していた。このような部落をあるがままに表現した作品は、それまでの部落問題を取りあげた文学には全くなかったものであり、その意味で、部落民の肉体をもった登場人物たちが日常的に話す部落の言葉も含めて、『浄火』はそれまでに書かれた多くの作品の中で、はじめて部落の真実の姿をリアルに描写した画期的な作品であった。

 

(1)宮崎芳彦「浄火」(部落問題・人権研究所編『部落問題・人権事典』解放

出版社、491頁、2001年)、師岡佑行『西光万吉』(清水書院、1

992年、63頁)

(2)北崎豊二「〈部落史の窓(7)〉水平社同人と『新文化村』」(『部落解放研

究』第91号、1993年4月)、宮崎芳彦「「年譜―西光万吉(清原一

隆)伝」(『西光万吉集』解放出版社、1990年、437頁)。

(3)木村京太郎『水平社運動の思い出』下、部落問題研究所、1975年、

189頁)。

(4)大阪府救済課「部落台帳」(『大阪同和教育資料集』第3巻、部落解放研

究所、1984年)

(5)渡辺徹編『大阪水平社運動史』(解放出版社、1993年、62頁)。

(6)渡辺俊雄「泉野利喜蔵の軌跡」(『部落解放研究』26号、1981年6

月、109頁)。

(7)木村京太郎『水平社運動の思い出』下、部落問題研究所、1975年、

190頁)。

 (8)卒田正直「中川喜之助さんの思い出」(『荊冠の友』第35号~第42号、

1969年5月~12月)。

(9)宮崎芳彦「年譜―西光万吉(清原一隆)伝」(前掲書、435頁)。

(10)前掲注(1)。

(11)阪本ニシ子『私の生きざまと詩』(部落解放同盟大阪府連合会堺支部歴史

編纂室、1980年7月、3―4頁)。

(12)部落解放同盟大阪府連合会堺支部歴史編纂室編刊『さんきい物語*第一

部*へのまつ村の阪田三吉』(1977年、32頁)。