1からのつづき
鐘楼の鐘は徳島藩主・蜂須賀家によって慶安2年(1649年)に寄進されたもの
だそうです。
本堂前には大きな石塔があります。
何か調べてみましたが、良く分かりません。
宝篋印塔
隣には良い石仏がありました。
阿弥陀如来
千手観音菩薩
青面金剛かな?
焼山寺の石段の手すりは大理石でできています。
夏はひんやり、冬は暖かいそうですよ。
石段の石も独特のもので、がたがたしているのになぜか登りやすい石。
納経所の前にあった公衆電話
とてもユニークですね~。
納経所の横の展望所にあった牛
なぜかぽつんと・・・。
寂しそうでした。
焼山寺までの参道に、杖杉庵(じょうしんあん)という小さな庵があります。
庵の左側に弘法大師と衛門三郎の銅像があります。
この場所には謂れがあります。
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。
三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、
民の人望もありませんでした。
ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。
三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。
その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、
8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を
竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。
以降、僧侶は現れなくなりました。
その後、三郎の家では不幸が続きました。
8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。
打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、
三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。
以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、
己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、
お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、
何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。
しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。
死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。
弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、
人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。
弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。
翌年、河野家に左手を握りしめた男の子が生まれました。
両親がお寺へ連れて行き祈祷してもらうと、
そこから「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきました。
その石はお寺に納められ、今も大事に祀られています。
その弘法大師と衛門三郎が最後に出会ったのが、この場所です。
先達さんのお話では、この先51番札所の石手寺(いしてじ)にその握られて
いた石が展示されているそうです。
お寺の名前も石手寺とはそういうことなんですね。
先達さん曰く、赤ちゃんが握っていたというけれど大きすぎて握れるはずない
ということでした。
個人的な気持ちですが、この衛門三郎のお話にしても、鯖大師のお話にしても、
施しをしなかったことで大変な目に遭っていますが、
本当に弘法大師がそんな目に遭わせるのかと疑問です。
修行している僧なので、施してくれなかったからと言って相手を恨んだり、
罰を当てたりするとは思えないんですけど。
あくまで私の個人的な意見です。
焼山寺の御朱印です。