●石原莞爾~マッカーサーが一番恐れた日本人 @早瀬利之 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

昭和6年(1931)満洲事変は
1万の兵で張学良の近代装備軍22万を制圧し
3ヶ月で満洲全土を占領する、、
軍事的に見ると、まるで信長の桶狭間の如き
大快挙で、全世界の軍人は驚嘆したのだ。


この戦争の仕掛人として注目されたのが
42才の若き作戦参謀・石原莞爾。
ナポレオン戦史の第一人者でもある。


後の昭和8年、松岡洋右の随行で渡欧すると
(この時国際連盟脱退)   かつて留学していた
ベルリンで、石原は満洲建国の英雄!
ロンドンでは「石原大佐にものを聞く会」が
催され、紋付羽織袴姿で登場した
「コロネル・イシハラ」は大人気!!


日本人クラブでは、(イギリス人もいるのに)

「イギリスは実に生意気な国である。
第一、ナポレオンに対する礼儀を知らない。
けしからん。こんな国は追っ払ってしまえるが、武士の情けでやらないまでだ」

と毒づいて、国際連盟脱退で肩身の狭い
在留邦人を大いに元気づけたんだ。





満洲建国後の石原莞爾の基本方針は
なんと、「10年不戦」だったんだなー。
国力を養い、最終戦争に備えよう!


しかし、日中戦争勃発、戦線拡大、、と
日本は逆方向に突っ走り、東條英機とも
衝突して、とうとう陸軍をクビになる。。


しかし、石原の本当の姿は
ここから先の活動に見えてくるのだ。

「ザ・プロファイラー」より




立命館大学の教授となり、
新設の国防研究所の所長にも就任する。
立命館での「国防論」の講義は、人気が高く
隣の京大生も潜り込んで聴講したし、
出版した「国防論」はベストセラーとなる。


しかし東條は、著書を発禁処分にし
教授の職を奪い、365日の監視も付けた!
石原は山形に帰り、東亜連盟の顧問として
日・満・中・朝のアジア同盟運動に。
この機関誌は周恩来も愛読していたんだよ。


戦況が悪化すると、なんと東條が意見を
求めてきた。迷わず戦域縮小と和睦交渉を
直言するんだけど、、、聞き入れられず
東條暗殺を企て失敗。。少なくとも2回!




終戦後の遊説。



石原莞爾の全国遊説が始まるのは、
昭和20年の終戦間もない、8月31日。
東亜連盟宇都宮支部の講演会が第一声だ。


「敗戦は神意なり!   どうです皆さん!
何も悲観することはありません。
国土の荒廃は10年で回復しますよ!
世界に先駆けて文化的な密度の高い
平和社会を創るのです。
人間、裸ほど強いものはありませんよ!」


吠える様な太いダミ声は、マイクなしで響き
何千もの聴衆が、会場の外にまで集って
すすり泣きながら、聞き入った。





しかしGHQは東亜連盟を解散させる。
石原たちは直接マッカーサーに手紙を送り
共産党勢力の入り込みを指摘、講演会でも
記者に向け、マッカーサー軍政を批判する。


「一国の大統領ともあろう者が、
数十万の非戦闘員の殺戮を目指す
原子爆弾投下を命ずるとは、世界の戦争史上
類例を見ない暴挙ではないか。
私を講和の全権大使にさせれば、
私はアメリカから賠償金を取ってくる。
トルーマンこそ戦争犯罪人だと、
石原が声を大にして叫んでいたと、
マッカーサーに言え!」


石原の講演に集まった3万人の聴衆。




昭和21年3月、膀胱ガンに冒され入院中
戦犯選定執行委員が聴取に来る。

「俺は戦犯だ。なぜ逮捕しないのだ。
裁判になったら何もかもぶちまけてやる」

横柄なソ連の検事には
「自分自身が信仰をもっていながら、他人の
信仰を嘲笑うような、ゲスな馬鹿野郎とは
話したくない。帰れ!」   と一喝した。


結局、石原は戦犯から除外される。
世界が注目する東京裁判で、石原に喋らせる
ことをマッカーサーは避けたのだろう、、
と、著者は推察するわけだが、
私もそう思うよね~。


看護婦の小野野枝を伴い、15分おきに
尿瓶を使い血尿を出しながら、、の聴取。





かくして極東国際軍事裁判  「酒田臨時法廷」
が、開かれることになる。

これは、満洲事変に関わる軍人の犯罪性を
立証する為、療養中の石原に話を聞こうと
外国人裁判官や検事や、内外の記者が
山形の田舎町まで、わざわざ出向いて来た・・
世界史上稀な出張法廷。さすが大物~


石原莞爾は看護婦を伴い、リヤカーで出廷。
この本には二日間の証人訊問と
夜に行われた、記者会見の一問一答が
会話形式でレポートされ、とても貴重だ。
もち完全勝利、なのよね。





合間に行われた外国記者の会見では
マッカーサー軍政をバリバリ批判する。
この様子を見ていた仲條立一氏の記録。

「あの澄んだ目と独特の笑顔で、
冗談と皮肉を連発し、一同を哄笑させながら
鋭い批判を展開し、聞く者に深い感銘を
与えたように私は見た。
別れに際して記者団の中には、
将軍に抱きつかんばかりにして
サンキュー、サンキューを繰り返して
感激を表現する者がいたことを
私は記憶している。」

マッカーサーに宛てた提言
「新日本の進路・石原莞爾将軍の遺言」
世界最終戦争の予測は誤りだった、と認めた






この本は割と最近刊行されている。
作者曰く、石原莞爾の人物評価が若者の間で
広がっていて喜ばしい。。その上で、


勝者による東京裁判で
「満洲事変から十五年戦争」という表現を
鵜呑みにしてきた戦後の史観は、
戦後教育を受けた父親の世代に定着していた
が、これを誰が巧妙に仕掛けたか、
それを見抜くことだ。。と



ザ・プロファイラーでは、残されていた
貴重な石原の肉声を流してくれた。


「これからの日本は絶対に
戦争放棄に徹して生きていくべきです。」