宮沢賢治は37年しか生きなかったけれど、
なんと沢山の人生を過ごしたことか。
★岩手の自然に抱かれ、岩手山や北上川、
石や鳥、虫、花、星と会話する、自然人。
★法華経に帰依し世界の幸せを願う仏教者。
★音楽も演劇もやる、元気な高校教師。
★科学の力で農業を変える、肥料の神様。
★後世に残る詩や童話を書く、文学者。
全てがフル回転、そして善意のフルパワー。
磯田先生は、
「賢治は本当に世界を救えると思っていて、
それを気負わず訥々と本気でやるんですよ。
気味が悪いほどに。」と言った。
小さい頃から鉱物集めが好きな賢治は
家族から「石コ賢さん」と呼ばれるが、
もうひとつ、家族の前でも常に遠慮がちで
賢治の父が、しみじみと話すことには
「賢治には前生に永い間、諸国を
たった一人で巡礼して歩いた宿業があって、
小さいときから大人になるまで、どうしても
その癖がとれなかったものだ」、、と。
浄土真宗の宮澤家にあって、妹トシは
賢治と同じ法華経信者であり、良き理解者。
日本女子大卒、花巻高等女学校教師となるも
24才、賢治と同じ胸の病で旅立つ。(1922)
花巻農学校教師時代は、念願の出版も
果たし、活発な授業をする充実期だった。
黒板には花巻を中心とした、
北上平野の東西方向地質断面図。
自作テキストで、科学的な講義を行った。
植物の根の形態と内部構造の説明。
・・・・一生懸命が伝わる絵。
という、母イチさんの言葉を、その通り
賢治は生きてきたのだろう。
現世の賢治は、大いなる「善意の塊」となり
動き回ったけれど、どれも大成せず
本人の死後に、家族が整理、発行した
銀河鉄道の夜、風の又三郎、雨ニモ負ケズ・・
たくさんの作品が、来世に花開く。
「この一生の間、どこのどんな子供も
受けないような、厚いご恩を頂きながら
いつも我慢でお心に背き
とうとうこんなことになりました。
今生で万分の一もついにお返しできません
でしたご恩はきっと次の生、
又その次の生でご報じ致したいと
それのみを念願いたします。
どうかご信仰というのではなくても、
お題目で私をお呼び出し下さい。
そのお題目で絶えずお詫び申し上げ
お答えいたします。 」
賢治
父上様
母上様