●兄のトランク @宮沢清六 | ★50歳からの勉強道~読書録★

★50歳からの勉強道~読書録★

本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

宮沢賢治の9歳下の弟、清六さんが
兄との思い出や、秘話を語る。
お二人は小さい頃からとても仲良しで
清六さんは「とても変わり者」であった
賢治兄さんが、大好きなのだ。


文章を読むと、賢治の世界観や独特の表現に
とても影響を受けたことが解る。。
でも賢治自身は、清六さんの趣味に干渉せず
宗教を強いることも全く無かったそうだ。





清六さんも賢治のように、飽きもせず一日
草花や虫と遊ぶ子供。従兄弟たちと
蜘蛛の胴体をチョン切ったりするんだが、
この手の残酷遊びに、賢治はいつも
加わらなかったそうだ。
弟さんならではの証言、貴重だなぁ。


その代わり、家族から「石コ賢さん」と
呼ばれるように、様々の色の鉱石や
根石、貝石を箱に入れて説明してくれたり、
顕微鏡で色んなものを見せてくれたのだ。


中学生の賢治は、丸いボール紙の星座表に
熱中し、清六さんに星座の名前や教え、
星の伝説なども話してくれる。

「私達は毎日地球という乗り物に乗って
いつも銀河の中を旅行しているのだよ」

宮沢賢治は中学生から、心優しき宮沢賢治。


1913年。中学生の賢治。
自分の代わり家業を継ぐ従兄・嘉助に、
励ましの自作短歌を書き添え、進呈した。(^^)





清六さんが軍隊に入隊していた折には
農学校教師をしていた賢治が
健康を心配し、わざわざ面会に来てくれる。


二人で安い酒を呑んで話し、
帰ってからくれた手紙には、

「もし風や光のなかに自分を忘れ
世界が自分の庭になり、あるいは惚として
銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずる
ときは、楽しいことではありませんか。」

とある。やっぱり宮沢賢治だ~。

1925年仙台大演習に参加した清六さんと、
それを訪問した賢治

その時の都合を尋ねる手紙。





さらに、音楽に熱中した賢治の無邪気な
様子を伝える貴重証言が、また面白い。


レコードを初めて聴くと
「こいつは何だ。大変なもんだ。
ベートーベンときたら、ここのところを
こんな風にやるもんだ。」と
蓄音機のラッパの中に頭を突っ込み
旋律に合わせ手を振ったり、躍り跳ねたり。

賢治愛用のレコード、メトロノーム、セロ




当時のポリドール社では、沢山の新譜が
花巻という田舎町の楽器店で売れている・・・
ということで、店に感謝状を贈った!
しかし、それを風変わりな農学校教師だけが
買っている、と知って唖然としたそうだ。


清六さんは、ずっと後になってから
この話を楽器店の老主人に聞いて
可笑しくてたまらなかったんだって。(^o^)




二人は顔を見ればレコードをかけ
冗談を言い合ったので、
「半生をレコードを介して一緒に旅行した
ようなものだ」と、清六さん。素敵ねぇ。


そして賢治は、「おれも是非、
こういうものを書かねばならない!」
詩集「春と修羅」の自費出版に至るのだ。

生前に出した、唯一の詩集「春と修羅」、
唯一の童話集「注文の多い料理店」
どちらも自費出版、どちらも売れなかった。





表題の「トランク」は、宮沢賢治の
情熱と童話がいっぱい詰まった、玉手箱。


宗教で父と対立して東京に出奔した後、
凄い勢いで童話を書き、7ヶ月後
馬鹿でかいトランク一杯に持ち帰り、
「わらしこさえる代わりに書いたのだもや」
という、名言付きの最重要アイテムだ。


後に、東京にいる清六さんのもとに
賢治が童話ぎっしりトランクごと持ってきて
「婦人画報にでもに持ち込んでくれ」、と
頼んだ事がある。でも当然不採用。(^_^;)
「これは私の方の雑誌には向きませんので」


原稿は実家の土蔵に文字通り「お蔵入り」と
なり、その後の賢治はトランクに
化学肥料のパンフや試料を詰め込み
農業活動、肥料振興に精を出すことになる。

「肥料用炭酸石灰」宣伝用小冊子(1929)と
炭酸石灰価格見積。 (1931)




賢治が膨大なトランクの中身に
ようやく推敲を加えるのは、
病で寝付いた晩年の2年間のみ。


しかし、銀河鉄道も風の又三郎も、
ほとんどが未完成のまま、
そっくり家族に託すことになる。

お母さんに童話を託したとき、
「あの童話はありがたい仏様の言葉を
一生懸命書いたものなんじゃ」と言った。




清六さんは、賢治の死後、
ドランクのポケットから手帳を発見する。
それが、貴重なコレだった。





清六さんの言葉がとても印象深かったのだ。


賢治が日清戦争の直後に
周期的に天災の訪れる三陸海岸に近い
寒冷な土地に生まれ、他人の災厄や不幸を
常に自分自身のものと感じずにおれない
善意に満ちた性格の持ち主であったことは
彼の生涯と作品を決定する宿命であった。


私は永い間兄の傍にいて
ある人には立派な資格だと言われ、
ある人たちには嘲笑され、
或る人々にはどうしても理解されないで、
しかも自分にとって、この世ではまことに
不幸であった、この持って生れた性格を
弟として何とも出きず
全く気の毒でしかたなかつたのである。