●古道~古代日本人がたどったかもしかみちをさぐる @藤森栄一 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

戦前に書かれた「かもしかみち」という旧著を
昭和41年に再版したもの。
今は講談社学術文庫にもなっている。


日本には全国に沢山のゾウがいたのだなぁ。
これを追って大陸から旧石器人が渡ってきた。


第四氷河期が終わるとゾウはいなくなり、
沖積期にはシカやイノシシの「けものみち」
をつなぐように、人間の近道ができていく。


ちなみに・・・
★氷河期以降に出来た一番新しい地層を
「沖積層」と言い、基底礫層→下部砂層→
中部泥層→上部砂層(現在)と積み上がる。







・・・・と、いうような道の話が沢山ある中、
私が大いに食いついたのが、尖底土器。


縄文早期、日本最古の土器の底は、何故
尖っているのか。しかも例外なく全部。

お湯が早く沸く?地面に刺して使う?
くらいしか答えがなかったこの謎に
藤森栄一さんの古くて新しいロックな解答!




底が尖った物は平面に置けない。
つまり、置かなかったのだ! なるほど!


早期縄文人の竪穴住居跡は稀有に近い。
遺跡は数多くあるが、平地に焚火跡のみで、
様々な地域の土器片が混在するのが特徴だ。

藤森さんはこう想像する。




つまり、急激に温暖化が進んだ早期縄文の
ある時期、(8000~6500年前くらい?)
人々は家を持たない、移動採集生活をした。

ある「巣」で拾うものが無くなると、土器に
荷物を入れて背負い、別の場所に移動する。
そこへ別の群がやって来て、
種類の違う土器を落とす。。

こんな感じ?東南アジアによくある風景。



このキャンプ跡の軌跡がそのまま道になる。
昭和12年~14年、国学院の学生4人組が踏査
した縄文早期遺跡は、食料の豊富な
ほぼ同じ標高の台地を、帯状に分布する。





竪穴住居に住む旧石器の寒冷的な生活から
暖系の安易で開放的な生活になったことを
藤森栄一さんは「バタヤ文化」と表現する。
それだけ暖かくなった時期があるんだ。

土器は重いから、こうして肩にかけたかも。




そして、縄文前期になると(6500~5500年前)
申し合わせたように土器の底が平らになる。
土器はもう持ち歩く道具ではなく、
住居の中にデンと据えられる物になった。


縄文前期の竪穴住居は、四角でやや広め。
住居の規模は周囲の地力に比例し、
ここで弓矢や石斧を作り、厳しい自然条件を
生き残る、共同狩猟生活の時代になるんだ。


背負うなら、この形が安定するよね。




研究が進んだ今も、尖底土器は謎は曖昧だ。
縄文の始め、暖かかったか、家を造れないか
で、定住をやめて移動した時期があり、
リュック代りに道具も子供も入れて歩いた、
なんて想像、どうですかね。
私はアリだと思います。(^人^)

籠を編んで、その中に土器を入れてもいいね。





藤森栄一さん自身が少年の頃から
実際に歩いた、イノシシ道の「ウジ」、
かまくらみち、信玄の棒道、佐久往還など、
戦前の山道の話しはリアルでド迫力だよ。


昭和4年6月、肥後から諏訪に来た木こり達と
二十歳の藤森さんは二日間を共にする。

彼らは生活の家と生殖の場(トヤ)を別にし、
良い栗の木の下で、「子供をつくる」
ブユが引っ込み藪蚊が出る前、黄昏の一時間。
女は子種が流れないようホウの若葉を挟み
「帰れば三月やけん、ヤヤが産まれるにええ」

栗の花は男の精で、クルミの花は女の精。
大きな栗の木の下で~はそういう歌なのかも。





同じく昭和4年、
八ヶ岳の雨境峠の与三塚から勾玉が大量に
出て、草刈り人足が弁当箱いっぱいに拾って
くる、と大騒ぎになり調査に行く。

今は白樺湖に沈んだ道の、不思議な光景は・・
山のような岩魚の死骸の塊、キンバエの大群
炭焼小屋のちょんまげの真っ黒な老爺、
馬糞の山にたかるクジャクチョウ・ルリタテハ
名も知らぬ甲虫、背中いっぱいの馬虻・・
「本当の山」って、恐ろしいものだ。。。

雨境峠は古代の東への道、東山道。
大和~美濃~神坂峠~信濃~諏訪~雨境峠~
毛野~武蔵~陸奥へ。。





昭和39年に同じ場所を訪れた藤森さんが
見たものは、四角く整地された土地に
湖畔のバンガローや、道路を走る高級車、
ショートパンツの若者、コーラの空き瓶。。
大陸からの帰化植物ヒメジョオンが占領し、
かつての亜高山植物は見るかげもない。

現在、雨境峠にある鳴石。
峠神信仰は、我故郷の山へ帰りたし、、
防人たちの切なる祈りであったかもしれない。





科学の発達で考古学も進んでるだろうけど、
より「過去」に近かった戦前の
ナマの記録と記憶。もう戻らない。尊い。


ロマンにまかせて、手付かずの遺跡を掘って
回った多くの若者は戦争に散り、
沢山の研究は中断されてしまったという。

昭和12年、縄文早期遺跡を踏査した
国学院大学の若者たち。
乙益君は愛器プレ・ヒストリア(先史号)で
荒城の月や箱根の山を奏で、疲れを癒す。
キャプテンの江藤君は沖縄玉砕戦に散った。