野本三吉さんは、その冒頭で
考古学者藤森栄一さんに影響を受けたことを
熱~く語っていて、その藤森さんが
生涯を懸け、追い求めたのが、銅鐸。
昔から銅鐸は謎だらけだった。
銅鐸の謎を解き明かそうとした藤森さんは
何度も行き詰まり、結果、なんと
ご自分が生まれ育った諏訪に行き着く。
そして諏訪を解くことで、日本古代史の謎の
多くは解けだろう、と考えるようになり、
藤森さんの遺志を引き継ぐかのように
古部族研究会も諏訪に入っていくんだなー。
この本は昭和39年に書かれた。
何層もの壁にぶち当たりながら、藤森さんが
銅鐸を探し求めた記録、、つまりは
勝者に葬られ、忘れ去られてしまったけれど
確実に今の私たちの内面に存在している
であろう、、「原日本人」を探す旅。。
驚くことに、当時
「考古学者は物をもって語らしめよ。
研究者がとやかく類推する必要はない」
というのが、
「考古学者の骨の髄まで染み通った
かたくなな信念である。」そうで、
藤森さんはそのタブーを破り、文献や伝承に
銅鐸の真実を求める、独自の道を行く。
民間の考古学者を顕彰する「藤森栄一賞」も
ある、偉い学者さんなんだ。
そもそも銅鐸は何の為に?どう使ったのか?
が判らなくて、今だに諸説紛々なんだけど、、
とりあえずは「鳴らす」ものであり、
中に「舌」と言われる、音を出す為の物が
ぶら下がってる。鈴みたいに。確かに
内側の「舌」が当たる部分は磨り減っている。
最初は小さく、吊り下げて鳴らすものだった
ようだが、どんどん大きくなり、
装飾もされて、置いて使ったんだろうか?
そして古墳の時代になって、急に姿を消す。
ただ一つの伝世品も残すことなく、
全て地下に埋められたのだ。
発掘される銅鐸は、祭祀などの意図を持って
埋めたというより、横倒しで土をかけ、、
「とりあえず埋めた」感が大きい、という。
藤森さんが諏訪に突破口を見つけたのは、
神長家が神降しの時に鳴らす「鉄鐸」の存在。
これが銅鐸の前身じゃないか、って。
ちなみに、諏訪神長家の守矢文書によると
武田信虎と諏訪頼満の和議に出張して、
誓約のしるしに鉄鐸を鳴らした記録がある。
取引成立の神を仲介する御宝鐸として
鳴らす礼金も決まっていて、
戦国期、出費が嵩むからもっと安くしてくれ、なんて話も。
神長家の権威も衰え、本来の用途を逸脱し・・
それでも室戸期まで細々、神威を保ち
銅鐸が消えても諏訪にだけ、鉄鐸は残った。
膨大な麻和幣の中に鉄鐸があり、地面を衝く
と、ジャンジャンと重々しい音が鳴る。
白い麻の御幣は7年に1本づつ結びつける・・
この膨大な量を見よ!完全に古代の遺物。
「アメノウズメ(天鈿女命)が手に鐸(さなぎ)の
矛を持って、岩戸の前で誓約した」と
斎部広成は「古語拾遺」に書き残したのは
きっと、このようなものだろう。
もちろん謎の解明には至らないけど、
面白かったのは、藤森さんのお話。
天智天皇の667年、近江京を建造中に
銅鐸と光る白い石が発見され大騒ぎになった
・・・と扶桑略記に書いてあるのに、
日本書紀に記載がないのは何故か?
つまり銅鐸は瑞祥ではなく、葬られるべき
前時代の邪神の具・・と中臣鎌足は認識して
いたんじゃないか。。?!
中央左寄りに、地上に横たわる銅鐸。
この時から、昭和37年の時点まで1200年で
300点以上の銅鐸が出たけれど、
考古学者が発掘した物は一つも無し。銅鐸は
どこから出るか、全く予測がつかないんだ。
昭和37年には、工事の青年がブルドーザーに
幾つも銅鐸をぶら下げて走り回っていた・・
古いバケツ位にしか思わなかったんだろう・・
圧しつぶさず拾っただけ偉かったけど・・・
なんて笑い話みたいことも書いてあって、
だけどこれじゃ困るのだ、と。
素人が勝手に掘り出しちゃうから
埋没状況の観察もできないんだよね。
藤森さんが銅鐸のとりこになるキッカケが
考古学界の碩学・伊藤富雄さんの言葉で、
「日本には天皇がいっぱいいた。
あちらにもこちらにもいた。大和の天皇も、
諏訪神社の大祝天皇も同格だった。
ただ、経済の力が強く、支持者の多かった
大和朝廷が勝っただけのことだ。」
この言葉を野本三吉さんもそのまま引き継ぎ
銅鐸から諏訪神事の鉄鐸→ミシャグジへ、、
深層を掘り起こそうとしてるんだ。
♪♪♪
我が家の南部鉄の風鈴は、
恐ろしいほど澄んだ、綺麗な音で鳴るんだよ。
銅鐸の音色はどんなものだろう。
加藤彰彦氏。長く福祉の仕事をされている。