中国唯一の女性皇帝。スゴいよ、この人。
苛烈で残忍な悪女? いやいや~
他の “普通の悪女” と同列にして欲しくない。
レベルが違う!・・・もしかすると英雄。
要するに、唐の太宗周辺にいた無数の人物の
中で、最も強く、賢く、潔く、
大局を見据えた行動を取れる人間であり、
殺らなければ殺られる、過酷な生存競争を
ただ一人の才覚で勝ち残った、頭脳の持主。
まさに空ーー前ーー絶ーー後の~~!っと、
私だって叫びたくなっちゃう立身出世物語。
スタートは、三千人もいる太宗の宮女の中の
単なる一人。14才。実家の家格も低かった。
宮女は、太宗の夜のお相手の為に教育される
美人たちで、運良く太宗の目に留まり、
寝室に呼ばれ、気に入られれば官位と家が
与えられ、寵愛の度で待遇が上がる競争。
この女同士の後宮の戦いが、まず熾烈で
嫉妬からの裏切り、毒殺、讒言当たり前。
殺らねば殺られる。じゃ、殺らなきゃ。
のち、息子に非情さを責められた時、
「貴方の優しさは解るけど、こうしなければ
貴方も私もとっくにこの世にいないのですよ」
と言ったけど、ホントにそうだよ。
太宗のお手がついた沢山の宮女達はみーんな
太宗死後、感業寺に送られ尼となる。
口封じを兼ねた生ける殉死。。ひどいよね~
後の武則天の男関係を、淫らとか言うけど、
僅か数人を寵愛しただけだもん。無問題!
もちろん我らが武媚娘(武則天)は、そんな
理不尽に甘んじることなく、事前対策。
密かに太宗の息子、高宗にも愛され・・・
周囲もバッチリ買収し・・・見事、寺から復活。
そこから高宗の王妃も、別の寵妃も、その
家族たち、取り巻き権力、全てを蹴落とし、
なななーんと、皇后に冊立される。
というより、そうなるように味方を増やし、
諜報を巡し、妨げとなる名門貴族(関隴集団)
並み居る敵対勢力、次々葬り去ってしまう。
全て計算づくの大胆手腕、お見事!!
武則天のスゴい所は、人を見る目がある、
という事と、素直で正直である、という事。
あらゆる策には、人の心を掴む洞察力があり
ヤラシく、姑息な陰湿さは、あまりない。
何より、思い切りが良い。痛快!すぎる~
大目的達成の為に、小事と見なした物は
バッサリ捨てる。たとえそれが実の子でも。
そういう、恐ろしいほど男前の大観を持ち
ながら、めちゃめちゃ妖艶な美貌の持主な訳
で、つまり最強の男が、女の武器も備えて
います。。。という、正にコレ最強人類。
武則天は高宗の死後、愚鈍な息子・中宗を
僅か54日で廃し、大后として依然
政治を執り続ける。そして4年後には
ついに皇帝となり、唐を廃して武氏による
周王朝を打ち立てちゃう。690年。67才。
それもこれも、中宗が皇帝の器でないから。
でも、15年の治世の後、武氏を継ぐ甥たちが
これまた皇帝の器でない、ということを
ちゃんと解っていて、82才でかの中宗に
「李氏の唐」を返すことになる。潔い~
李氏でも武氏でも、男でも女でも、
優れた皇帝が国を治めれば良いではないか。
武則天の治世には、機嫌取りの酷吏が
残忍な悪事を働くことも多かったけど、
国自体は隆盛の一途を辿る。スゲー。
貴族社会の因習を壊し、人材登用に門戸開放,
重臣からの耳の痛い諫言も、受け入れる。
文学を重視して、科挙に取り入れた事は
後の王維、白居易を生む元となったし、
漢字大好き武則天は、文字の霊力を信じて
幾度も改元を行った。
オリジナルの「則天文字」も17個作成し、
徳川光圀の「國」は、今も日本に残っている。
囲碁勝負をする場面がある。もち、圧勝。
仏教を道教より上に置いたのも、武則天。
聖武天皇の国分寺・国分尼寺は、武則天が
諸州に建てた「大雲寺」に倣ったものだし、
703年に粟田真人、山上憶良らの遣唐使に
謁見したのは、81才の武則天だった。
評価は様々あるけれど、、あの超大国で、
一介の小娘が、己一人の才覚で
唐を倒し、皇帝となり、新王朝を起こし15年
皇后時代を合わせれば、延べ約40年間。。
その間、地位を脅かされることもなく、
立派に国を治めてしまった。。
こんなスゴい人生あるか??
だって、、エート・・茶々が一人で三成を使って
徳川、前田、毛利全て倒し浅井幕府を開いた
ようなもんだよ?・・・イヤ、それでも足りん。
尊敬する。まじで。