●河井継之助~信念を貫いた幕末の俊英 @芝豪 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

幕末、長岡藩の奮戦は凄まじかった。


河井継之助という傑出した指導者がいて
勢いに乗って東征してくる官軍を、
新潟で散々に蹴散らした、、、


と、長岡出身・半藤一利センセイは、折に触れ
強調してたな。しかも司馬遼太郎の「峠」の
主人公だったんだね。知らん名前だなぁ。。
と、スルーしちゃってた。。ホントすんません







勝てば官軍、とは言うけれど、
半藤さんは終始一貫、薩長軍を盗っ人or
田吾作呼ばわりしてる。当時の人達から
見ても、本当にそうだったんだろう。


勝手に錦の御旗をつくり、官軍と称し、
恭順を示している将軍慶喜の首を獲ろうと
する。これはもう、「官賊」なわけで、
河井継之助がどーしても薩長に与することが
できなかった理由が、ここにある。


官軍




継之助の性格は豪胆にして野放図、
小さい頃から問題児。酒を愛し、女を愛する
陽気な遊び人で、これを慕って川島億次郎、
植田十兵衛、三間市之進、花輪求馬、
村松忠治右衛門、小林虎三郎、山本帯刀・・
多くの若い人材が集まった。

どこか漢の高祖劉邦を思わせる、
ナイスキャラ。(^o^)v

河井継之助





家老に抜擢されると、怒濤の如く藩政改革を
実行。鳥羽伏見の敗戦を知ると、
いち早く江戸の長岡藩邸を財宝ごと処分し
その金を全て、最新式の銃砲と弾薬に変える。


桁違いに高価で、日本に三門しかなかった
米国製の三百六十発・元込め・六つ穴の
ガトリング機関銃を、二つも長岡のものに
したんだ。先見、勇断、デキル男なのだ~


1865年型ガトリング砲





「奥羽列藩同盟」は5月に結成された。
4月の江戸開城の後、会津討伐に来た官軍の
奥羽鎮撫隊があまりに傲慢で、

その鬱憤から仙台藩士が、参謀の長州藩士
世良修蔵を暗殺。
これを契機に奥羽25藩が仙台藩を盟主に
同盟し、西軍迎撃を決めたそうだ。




奥羽越列藩同盟の旗





長岡の民を戦争に巻き込みたくなかった
継之助は、独立特行を志し、ギリギリまで
調停に命を賭けた。実は、「戦えば負ける」
・・ちゃんとそこまで、分かっていたから。



しかし薩長との交渉は決裂。
遂に長岡も奥州越列藩同盟の一翼として、
7月北越戦争を闘うことになる。。。


最強を誇る山県狂介(有朋)の奇兵隊を相手に
一度奪われた長岡城を奪還したのは
本当に凄いことなんだよ、、、


北越戦争





継之助の行動の基になっていたのは
やはりここでも!佐藤一斎から繋がる
陽明学だった。
そして、わざわざ備中松山まで赴き師事した
儒者、山田方谷を心の底から尊敬した。


山田方谷は民を守る為、松山藩を薩長に
恭順させた。。継之助にも当然、
その選択肢はあったのだけれど、、


山田方谷





京都所司代を勤めた長岡藩の採るべき道として、薩長に降ることは有り得ない。

負けるとわかっていたけれど。
武士の信念。矜恃。貫くしかなかった。


そして、今でも長岡の人たちは
そんな河井継之助を
誇りに思っているのだろう。