●ポーツマスの旗~外相小村寿太郎 @吉村昭 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

ポーツマス条約(日露講和条約)は
アメリカ大統領ルーズベルトの仲介により
1905年9月5日成立した。


ロシア全権セルゲイ・ウィッテ
日本全権は、外務大臣小村寿太郎。
ネックは償金請求と樺太の割譲だ。


大国ロシアは戦争継続をちらつかせ、
「日本には1ルーブルも1握りの土地もやるな」
と、皇帝ニコライの厳命。


対する日本の国費は底をつき、
既に戦闘不能。講和しないと国が滅びる!
日本の全ては、全権小村の肩にかかる。


しかし、国民の恨みを買うだけの損な役回り
なのは最初から明らかで、

元老伊藤博文は
今さら名誉を汚すのは・・と全権を辞退し、
「他人はどうあろうと私だけは必ず
出迎えにいく」と、慰める。


井上馨は「君は実に気の毒な境遇になった」
と涙を流し、


総参謀・児玉源太郎 は   
「桂(首相)の馬鹿が償金を取る気になっておる」  
 (-""-;)

こんな政府の実情と全く裏腹に・・・
奉天会戦と日本海海戦の勝利に沸き返る
国民は沿道を埋め尽くし、日章旗を降り、
熱狂的に、全権小村を送り出したんだ。






小村寿太郎は宮崎県飫肥藩の出身。


小さい頃から抜群に頭が良く、ハーバードを
卒業し、ニューヨークで法律を学び、
明治17年30才で外務省に勤務した。


しかし、父の作った借金に追い回される生活
妻は精神不安定の家庭不適合者、
いつも古びたフロックコート、破れた靴で
出勤し、廃屋同然の家に住んでいた。


それを救ったのが陸奥宗光。
見かねて北京代理公使に任じると、
その後日清戦争に至る機敏で綿密、的確な
動きが注目を集め、栄進の道が開けた。





“ネズミ公使”と渾名され、とにかく小柄な
体であちこち動き回る小村だが、交渉に
おいては論理に徹し、少しの失言もない。


的確な判断を瞬時に下す、「外交の天才」
なんだ。カッコいいよー\(^o^)/


対するロシア全権のウィッテは超大男!
しかも、元々日露開戦に反対した平和主義の
切れ者人物で、交渉は拮抗した。


しかしロシアは専制君主国家なので、
皇帝ニコライの強硬指示は絶対命令、、、


ウィッテも苦しんだ。でも結局堪えきれず
償金、樺太ともに放棄せよ、と
指示決定したのは東京の首脳部だ。



小村は頑張って樺太南部の割譲を
勝ち取ったものの、交渉団にとっては
余りに悔しい全面譲歩となった。



左端ウィッテ、中央ルーズベルト&小村

ルーズベルトはこの功績でノーベル平和賞を
受賞した。アメリカ人初のノーベル賞。





講和成立後の東京を中心とした
各地騒擾事件の激しさにはびっくりした。


“屈辱外交”に怒った国民は日比谷公園で
大集会を催し、乱闘、破壊、放火。


東京の派出所はほとんど燃やされ、
教会や電車も焼打ち、米国人を襲撃!
小村の官邸にも火が放たれ窓が割られ、、
夫人の精神は完全に異常をきたした。


小村自身も暗殺覚悟で帰国し、事後処理に
追われる。講和直後も高熱を発したりして
健康は損なわれ、家庭は崩壊。



交渉に全生命を使い果たし、
出がらしのようになって朽ち果てる。。
こんなに頑張ったのに、こんなに恨まれる
なんて、、涙なしには読めないよ。。



1905年9月5日   日比谷公園
講和条約反対の決起集会




吉村さんは実際にポーツマスの講和会場
となった部屋を見学し、交渉記録を分析し
決して屈辱外交などではなく、
妥当な条件成立である、と思っている。


小村に従った外交団も優秀で
小藩出身でも有能な人材が沢山いたし、

暗号解読、各地の諜報員など水面下の動き
も激しくて、この時期、政治家、軍人、
外交官の水も洩らさぬ一致協力ぶりは
若い日本の瑞々しさを感じさせるのだ。