●ニコライ遭難 @吉村昭 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

大津事件は明治24年5月11日。
日本訪問中のロシア皇太子ニコライ二世が
滋賀県大津で暴漢に襲われ負傷した。


隣国であり、超大国であるロシア。
シベリア鉄道建設からの南下政策は、正に
脅威!朝鮮半島を獲られれば、次は日本。
仲良くするしか生きる道はない。


というわけで、長崎に上陸したニコライは
「空前絶後ノ大賓」 。。 そのオモテナシは
国家・民間挙げ、も~痛々しいほどで。


その皇太子様を、いや、次期ロシア皇帝を
傷つける不祥事!  政府は震撼した。
すわ戦争か?  賠償金か?
我が国最初の  “国難”   。それが大津事件。






犯人は警備にあたっていた巡査 津田三蔵。


警備員の突然の単独犯行は全く意味不明。
・・・だけど、不遜な夷狄ロシア。それに
対する卑屈な日本。。ここに鬱屈した
思いがあったようだ。


そもそもニコライの訪問経路が問題で、
長崎から何故か鹿児島へ行き、戻って
神戸、京都滋賀、東京、東北、、へ。


これが、実はロシアで生きている・・と噂の
西郷隆盛を鹿児島で下ろし、再び国家転覆の兵を挙げさせるのではないか、??


または、侵略に備えた軍事偵察が目的
なのではないか、、など新聞にも報じられ
政府も国民も深刻に警戒した。大真面目。


かくも上から下まで、見えない恐怖に
怯えきっていた、まだ若くひ弱な、日本。


てことで、その後は全く、てんやわんや。
東京から勅使も医者も大臣たちも、
ついには天皇陛下までも、お見舞いに参上
する。ロシア怒らせたら国が無くなる!


学校は休校、神社は祈祷、芝居は中止、
各地行政や団体の代表者は京都へ集結し、
お見舞い、電報は一万通を超えた。


こんな感じで走行中に、事件は起きた。




恐れた通りニコライは帰ってしまう。
てゆうか、ロシア皇帝と皇后が帰らせた。
完全に亡国の危機が訪れた。


ロシアの怒りを和らげるため、犯人は
死刑に処さねばならない。
松方正義総理以下政府、国民もそう思った
国を危うくする暴徒を憎むべし。


ここで感動的だったのは毅然とした司法の
態度。大審院長・児島惟謙以下7人の判事は
国の法律を曲げてまで、ロシアにおもねる
死刑判決を出すことを断固拒否したのだ。


法律的に正しくても国が滅亡するかも
しれないのだ!   という西郷従道、松方、
伊藤、山田、陸奥ら行政の大合唱に、


戦争になれば司法官の隊を組織し、閣下の
指揮の下に戦います。その時は堅苦しい
法律は持ち出しません。  
屈辱のもとに平和を願うべきではない。
                     
                                   by   児島惟謙



でも児島は賭けに勝った。
ロシアは死刑を望んではいなかった。




死刑判決を出させ、赦免を申し出ることで
ロシアの顔をたてようとしてたのだ。
すると法律を曲げた日本は恥となる。正解



「護法の神様」    児島惟謙(これかた)





ニコライ二世は3年後、皇帝となり、
日清戦争で勝った日本に遼東半島での
三国干渉、さらに10年後日露戦争。




日本人を猿(アカール)と呼び、敗戦後の
講和では1ルーブルも日本に与えるなと。




第一次世界大戦中の革命により
皇帝の座を追われ
1918年に射殺される。50才。



長崎に上陸当初はお忍びで遊び回り、
龍の刺青をしたり・・日本をメッチャエンジョイ
してたんだけどね。