●桜田門外ノ変(上・下) @吉村 昭 | ★50歳からの勉強道~読書録★

★50歳からの勉強道~読書録★

本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

大老井伊直弼の暗殺は
安政7年(万延元年) (1860)3月3日
雪の降りしきる桜田門。



脱藩した水戸藩士17人と薩摩藩士1人
による犯行。
指図役、報告役など綿密に計画され、
さらに暗殺に呼応して薩摩軍三千を挙兵
させる手筈まで整えていた!(コレは失敗)



吉村さんは当事者の日記を検証し、
全国の潜伏先を回って資料を集める。



克明な記録と高まる襲撃の緊張感!
読んでるだけでドギマギドギマギ#$%&@☆
どーなることかと苦しくてタマラナイ~
詳しく書きすぎー調べすぎー




なにはともあれ「水戸藩主・徳川斉昭」
という人物の存在の大きさに驚いた!



幕府にとって斉昭は、子供じみた攘夷思想を振りかざす、困った老人だが
急進派の水戸藩士にとっては
とてつもないカリスマ。尊崇の対象なのだ




桜田門の同志たちの行為は、
斉昭を執拗におとしめた井伊直弼に
対する報復であり、斉昭の栄誉を維持するために心身を捧げた、とも言える。



*~*~*~*~*~*~*~*



もうひとつの大きな存在が「水戸学」。



元は徳川光圀の大日本史編纂から始まり
日本古来の伝統を追究する学門だ。



時代を経て、斉昭による藩校弘道館では
会沢正志斎、藤田東湖らが
尊王攘夷の思想を理論的に体系化し、
吉田松陰など全国の志士を感化した。



そもそも!水戸藩特有のなだらかに長~く
延びた海岸線にポイントがあったりする。



江戸にも近く、いつ何時!異国船が襲撃
してくるやもしれぬ!!   海防意識は
他藩に比べ、格段に高かったのだ。



一時、蝦夷経営に手を出したのも
溢れる熱意と戦闘的意欲の表れ。


ロシアの侵略に対応できない松前藩の
不甲斐なさを許せなかったのだ。




水戸藩の強い強い危機感から生まれた
「攘夷論」は、桜田門後もそのまま
薩摩、長州の外様雄藩に根を下ろす。



しかし外国との武力対決など到底無理
なのだ、、とようやく理解した若者たち。
一気に「倒幕論」へと移行していく。



桜田門からわずか8年で明治維新へ。





月岡芳年  
「江水散花雪」こうすいさんかのゆき



まず森五六郎が行列の先頭に斬り込み、

黒沢忠三郎が駕籠へ向け発砲する。

それを合図に左右から6人ずつ襲撃し、

薩摩藩士有村次左衛門が大老の首をとり

刀に刺したまま逃走した。

全て手筈どおり。



真っ赤に染まる雪。後には切り落とされた
沢山の指や耳が落ちていたという。



*~*~*~*~*~*~*~*




独断で日米修好通商条約を結び、
殺気立つ攘夷論者をも安政の大獄で葬った
井伊の赤鬼。



開国か攘夷か。殺るか殺られるか。
双方が命を掛けて信念に従った。