嘉永6年(1853)のペリー来航から
万延元年(1860)桜田門外の変に至る、
日本人の混乱ぶりが、よくワカル。
老中首座阿部正弘、堀田正睦、
そして大老井伊直弼。
なんといっても朝廷との意見調整に
苦労したようなのだ。
その元凶こそ水戸藩主徳川斉昭。
15代将軍慶喜の父である。
天下の副将軍、水戸のご老公さま。
と言えば徳川光國?
と思っていたけど、同じキャッチフレーズにして、さらに強力なご隠居さんがいた!
開明派に傾く幕閣にあってただ一人、
強固に攘夷を主張。
外国人を江戸へ入れ、居住を許すなど
もってのほか!交易にて一切の御益なく
御国を奪う方策に相違なし!
現実を知らない朝廷を攘夷一辺倒に
靡かせ、市井の志士、攘夷論者の
影の煽動者となった。
沈没したロシア船ディアナ号を助けようと
初めての洋船建造を始めた幕府に、
「ロシア人ども500人を一所に集めて焼き殺してしまえ」と2回も提言してる。オソロシイ。
そんな中、親露政策や海軍増強を説いた
江川坦庵(英龍)という人はスゴいなあ。
黒船が浦賀に来て、打ち払え!っても
大砲もない、当時の太平楽日本。
独自に反射炉を築き、鉄砲や大砲を鋳て
西洋砲術を広めたのだ。
地元韮山では「世直し江川大明神」と
尊敬され、軍食として初めて乾パンを
導入した「パン祖」でもあるそうな。
間宮林蔵とも仲良しで、晩年の林蔵に
静岡のわさびを送り、お見舞いに行って
海防について意見を聞いたりしている。
さらに江川坦庵は桂小五郎や
ジョン万次郎を登用したんだけど、
「万次郎なるものはアメリカにて読み書きを覚えし者なれば、ペリーの手先、通訳に用いてはならず」
と横ヤリを入れる老公斉昭。
老公の仰せに従うしかない老中阿部正弘。
それを無視して万次郎を翻訳に使った
江川坦庵。いちいちホントタイヘン。
でもね、測量のために上陸してくる外国人が意外と陽気で、大きな声で歌ったり
菓子をくれたりするので、
江戸の市民の警戒心も次第に薄れ、、
軍艦に小舟で漕ぎ寄せ物々交換。
アメリカ人がコーラスすれば
それに合わせて船上でカッポレ♪、、
なんてことになってたそうだ。
市民はたくましい。
そんなんだったら、松陰先生もアメリカに
連れてってあげてほしかったにー。