本ブログ記事では、盧溝橋事件の北支事変以降の第二次上海事変を含む支那事変(主に中華民国の蔣介石が率いる国民政府軍との戦闘)を「日華事変」と呼び、対米英蘭戦争を「太平洋戦争」とし、「日華事変+太平洋戦争」を「大東亜戦争(対米英蘭蔣戦争)」と呼称しています。これには、様々な立場からの呼称やそれにまつわる議論がありますが、筆者は満洲事変以降、大東亜戦争の終結までを、全て連続の戦争と見做す「十五年戦争」という共産主義者の見方には同意しません。なぜなら、いわゆる日華両国の戦争状態としては、満洲事変に引き続いて、第一次上海事変の軍事衝突が、昭和7 (1932) 年1月29日に勃発しましたが、同年3月3日に上海派遣軍(白川義則司令官)が停戦し戦闘の中止を宣言して、同年5月5日には「上海停戦協定」が正式に日中両軍の間に締結され、戦争状態はここで一旦終結しているからです。

   そもそも第一次上海事変は、昭和6 (1931) 年10月、当時の関東軍高級参謀の板垣征四郎陸軍大佐(*陸士16期、陸大28期)と奉天特務機関補佐官の花谷正陸軍少佐(*陸士26期、陸大34期)からの直接要請により、上海駐在陸軍武官補佐官の田中隆吉陸軍少佐(*陸士26期、陸大34期)が、配下の川島芳子女史と共に、翌年1月に仕掛けた謀略(「上海日本人僧侶襲撃事件」と「三友實業公司襲撃事件」)により発生させたものでした。同依頼に際し、板垣参謀は田中武官補佐官に対して、「日本政府が国際連盟を恐れて弱気なので、事ごとに関東軍の計画がじゃまされる。関東軍はこの次には、ハルビンを占領し、来年(*昭和7年)春には、満洲独立まで持って行くつもりで、今土肥原(*賢二)大佐(*陸士16期、陸大24期)を天津に派遣して、溥儀(*最後の清朝皇帝)の引き出しをやらせているが、そうなると(*国際)連盟がやかましく言い出すし、政府はやきもきして、計画がやりにくいから、この際一つ上海で事を起こし、列国の注意をそらせて欲しい。その間に独立まで漕ぎつけたいのだ。」と話して、協力を要請したことが、今井武夫陸軍少将(陸士30期、陸大40期)の著書「昭和の謀略」朝日ソノラマ文庫版、昭和60 (1985) 年発行(旧版は昭和42 (1967) 年原書房刊)の65~66頁に記述されています。

   これに加えて、田中隆吉少将自身の回想も、ご子息の田中稔氏の編著になる「田中隆吉著作集」(私家版)にて、上記内容に相応する内容が記載されています。この件に関し詳しくは、次の二本の弊記事をご参照下さい。つまりは国際連盟の動向を睨みつつ、昭和7 (1932) 年3月1日の「満洲國」建国宣言に向けて、現地日本陸軍の出先中堅将校が引き起こした「時期重視」の、いわば「期間限定的謀略」がその目的と本質であったわけです。

→ 大東亜戦争と日本(44)第一次上海事変を勃発させた陸軍の謀略

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12665446993.html

なぜ日本はアメリカと戦争したのか(20) 第一次上海事変の田中隆吉謀略と東洋のマタハリ

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12386478659.html

 本シリーズ第(46)回記事で取り上げた、堀毛一麿陸軍少将(陸士28期、陸大37期)の証言にもあった通り、上述の板垣征四郎・花谷正・田中隆吉の三将軍は、全員が陸軍大学校卒業後は支那研究生などとして中国大陸に派遣され、かついずれも参謀本部の支那課・支那班に勤務した通称「支那屋(中国の専門家)」でした。こういう人材を育んだ陸軍大学校の教育は、さらに専門的な研究も必要であると思いますが、追加として次の二本の、本ブログの別シリーズ記事もご参照下さい。

→海軍史を読む(11) 上法快男編・高山信武著「陸軍大学校」(正・続)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12538456351.html?frm=theme

海軍史を読む(12) 上法快男編・高山信武著「続・陸軍大学校」その2

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12548561083.html?frm=theme

   その一方で、海軍大学校の教育にも、光を当てておく必要はあります。次の記事もぜひご一読下さい。→ 海軍史を読む(10) 実松譲著「海軍大学教育」より

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12517631843.html?frm=theme

 さて、今回はこれに加え、中澤佑海軍中将(海兵43期、海大26期)の回想録を取り上げたいと存じます。中澤中将は駐米海軍武官府補佐官附として米スタンフォード大学に留学し、昭和9 (1934) 年の帰朝後は、主に軍令部第一部(作戦部)と連合艦隊司令部に勤務しました。軍令部第一(作戦)課長時代は、日独伊三国同盟に反対していたにも拘らず同盟が締結されたため、希望して昭和15 (1940) 年10月15日付で重巡洋艦「足柄」艦長となり、その後本土北方・東方を守る第五艦隊参謀長として翌年の開戦を迎えました。海軍少将進級により、開戦約一年後からは海軍省人事局長を勤め、そして戦時中の軍令部第一部長(作戦部長)を、山本長官戦死後の昭和18 (1943) 年6月15日から、レイテ海戦後の昭和19年12月5日まで勤めました。特に軍令部第一部第一課対米作戦班長、第一部第一課長、第一部長、と海軍作戦中枢である軍令部の作戦班長、作戦課長、作戦部長の三つのポストを勤め、本シリーズ第(49)回に登場した富岡定俊海軍少将(男爵、海兵45期、海大27期首席、開戦時作戦課長、終戦時作戦部長)と並ぶ、「作戦の専門家」であったと言えるでしょう。

   中澤佑刊行会編「**海軍中将中澤佑 海軍作戦部長・人事局長回想録」(昭和54年原書房刊)の「第十三編  主要回想録」の「第三 わが海軍の学校教育につき所見」を読んでゆきたいと存じます。(*裕鴻註記、補正等)

・・・〔一、海軍大学校教育〕

 今村均陸軍中将の著書「檻の中の獏」を拝見した。その「陸軍大学校教育」中に、次の通り述べられている。

 「列国の幕僚教育機関は、幕僚大学といい戦略、戦術の研究と教育とを行うが、その主眼点はどこまでも幕僚勤務の精神、即ち将帥を如何に補佐し、その意図を如何に軍隊に徹底せしむるかの計画と、事務処理との研究と、教育とに重点を置いている。

 然るにわが陸軍は参謀学校の名をいやがり、陸軍大学校といい、最高の兵学学府であることを表現し、将帥補佐の幕僚勤務、即ち参謀要務をも教育はしたが、これは第二義的に取り扱い、如何にして軍、師団を運営し敵に勝つかの統帥研究を第一義としたため、学生として入校させた二十五、六歳の青年士官に、不知不識の間に、そのうちの極く少数が、二、三十年後に任命される師団長なり軍司令官なりの気位を、持たせることとなり、将帥補佐の礼儀ある態度よりは、大まかに将帥それ自身の態度をとろうとするものを生じ一般の隊付将校を見下したり、司令部で、自ら仕える将軍に対してすら批判的の眼で眺め、その是非を蔭口し、己の作って出した計画なり方案なりに、上級の者が手を加えて修正すると、忽ちに不満を表現する者を生ぜしめるようになった。

 そして第二の欠点は陸大戦術、戦略の研究が、第三学年になり、はじめて軍、師団を如何に補給し、戦をつづけさせるかの兵站業務の学修をやるにはやるが、兵学教官大部の教えるところは、補給関係を深く考慮しての戦術戦略ではなく、その場あたりの将棋的戦場のかけひき研究が多かった。

 これが大東亜戦争において補給可能の限度を越え、無制限に戦域を拡大し、最も、いましめなければならない兵力分散を極度にし、幾千万将兵を戦火によるのではなく飢餓に斃れしめるようなことにまでした原因だったと思われる。

 第三の過誤は(*陸大)教官の選任が、その一部ではあったが、適当を欠いたことだ。歴代幾人かの豪傑肌の気取り屋で、ちょっと他の部門では使いにくい者を、この学校の教官にするような人事が行われ、これ等教官は幕僚に欠いてはならない司令部と軍隊との精神的連繫に必要な礼儀とか、疎漏のない緻密な計画とかを軽視し、所謂「大功は細瑾を顧みず」式の放漫な気分を発揮した。そして遺憾なことに、血気旺んな青年学生は、動(*やや)もすれば、このような少数教官に、引きつけられる傾きが見られた。

 かような陸大教育を卒業した者を以て、中央三官衙(*陸軍省・参謀本部・教育総監部)の幕僚を充足せしめた結果、勿論一部の者ではあったが、海外、軍司令部幕僚の一部と気脈を通じ不羈の策動を試み、軍と国家とを煩わし、所謂「中堅幕僚の専行」とか「下剋上」とかの非難を世に叫ばしめるようなことにした」

 以上は今村陸軍大将の率直な意見であり部外者の私(*中澤提督)にも首肯し得るものがあるが、更に私をして一言することを許さるるならば、陸大における教育の過誤の外に、陸軍全般が独逸陸軍を範として生じた伝統と 幕僚間にて気脈を通じて策動して事を起こしても、そのことが成功すれば、敢てその非を問わず、却って栄進せしめた(*陸軍)人事行政が、益々この弊風を助長させたものと思う。

 翻ってわが海軍大学校の教育は如何。

 1、海大教育においては今村大将の列挙せられたような弊風は概ね無かったと思う。私の知る限りにおいては、海大教官は、人格、識見共に優れた者が任命されて、着実に兵術が研究され教育されたと確信する。

 2、海軍にては、教官も学生も、真面目で職務に精励する勤務優良な者が選ばれて、所謂豪傑肌の突飛な言動のあるものは決して選ばれなかった。

 3、海大の教育は、潔癖に過ぎる程、兵術教育に専念し、為に、政治、政略を研究し論談することを敬遠するに至った。私は近代戦争は、総力戦となり、国家の総力、即ち一木一草に至るまで動員して、これを戦力化して国民一人残らずが戦争目的に向って全力を尽くさなくてはならない時代となったので、海大にては、この見地から、政治、政略、経済をはじめとして、戦争に大なる関係ある事項については、教育して開眼させておく必要があったと思う。

 4、右についての着眼がなかったので海大の教育中「戦争」に関する研究が不足しておったために国交が緊迫して開戦すべきや否やの国家存亡にかかわる重大時機において判断を誤まらしむるに至ったのである。また大東亜戦争末期において、戦勝の目途全く失われた時機に、政府当局者が、明治憲法の研究不足のため、自ら進んで速(*すみやか)に和平を導くように決意して、統帥部を説き、天皇を輔弼して、和平を策すべきであったにも拘らず、敢てこの道に進まずして、徒らに月日を経過し、遂に陛下のご決断により終戦となったのである。

 (編者 山本(*親雄海軍少将、海兵46期、海大30期首席、大戦中の昭和18 (1943) 年1月20日から昭和20 (1945) 年1月6日まで軍令部作戦課長)注)<私(*山本親雄少将)が海大学生のとき(*昭和5年12月~昭和7年11月)にも戦争指導について殆んど教えられなかった。大尉の初期、在米大使館附武官補佐官を勤めたとき(*大正13年12月~大正15年12月) 大使館附武官山本五十六大佐に対し、「軍人は政治に拘らずですから、政治に関する本はあまり読みません」といいましたら、武官に大へん叱られ「軍人は政治が判らないでは駄目だ。そんな馬鹿なことをいうものではない。直接政治に関っては困るが、大いに勉強して政治のことが判っていなければ大したことはできない」といわれ、爾来私はこの点にも、心掛けるようにしたが及ばぬところ多く省みて恥しい次第です。戦後になって私(*山本親雄提督)は台湾で蔣介石総統の軍事顧問としてわが陸大卒の陸軍士官多数の方々と一緒に勤務しましたが、陸軍の人も戦争指導については、あまり勉強はしていないように思いました。中澤中将のいわれるように、彼を知らず己を知らず米英を敵として無茶な戦争となったのも陸海軍将校の戦争指導に関する教育のなかったことも重大原因ではなかったかと思う。>

 5、海大の学生は終始一貫、採用人員二十名内外で、需給一致せず、戦時編制実施時の配員に、不都合を痛感した。軍備の増大、組織の複雑化に伴い、学生員数の増加を策すべきであった。

 昭和十七 (*1942) 年十一月私(*中澤提督)が人事局長に就任し、配員の一般情況を調べたところ、海大甲種学生出身者の大半は、東京の赤煉瓦(*海軍省・軍令部)の中におるので、これでは海軍全般の戦力発揮上宜しくないと思い、なるべく速(*すみやか)に人材を作戦部隊に配員せよと指示したことがある。鼻柱の強い上級者は、人事局の配員に満足せずして、有為有能の者を指名して、人事局に要求する癖があるので、人事局は確乎たる信念を以て対処することが肝要である。

 6、海大の教育は、戦う兵術(連合艦隊決戦)を重視して、戦わずして勝つ兵術を無視した。孫子の真髄を徹底的に研究し教育すべきであったと思う。

 海軍にては、国防軍備の第一目的は、戦わずして克くわが意図、戦争目的を達成すること、即ち戦争の抑止力を発揮するにあることを軽視、否、寧ろ兵術の邪道であるとして、専ら戦うことのみを重視したのである。この点、戦争に敗れて、はじめて自覚するに至った観がある。

 この点海大は海軍最高の教育機関として爾他の術科学校と異なり、最高のレベルの立場を以て教育内容を選定すべきであったと確信する。

 7、海大は、陸軍(参謀総長所管)と異り海軍大臣の所管であり、教育も人事配員も大臣の所掌事項であったことは、(*海軍)部内融和上宜しかったと思う。・・・(**前掲書225~229頁)

 このように海軍中枢である作戦畑のエリートであった、中澤佑海軍中将は回想しています。こうして陸軍でも海軍でも、次代の首脳陣を担うべき優秀なエリートの養成と教育に関する長所短所がいろいろとあった様子が伺えます。

 ただ、海軍大学校では、ワシントン・ロンドンの両海軍軍縮条約の結果、「六割海軍」乃至「七割海軍」で、如何にして「十割海軍」たる米海軍に勝つか、ということが喫緊のテーマとなってしまい、そのために編み出されたともいえる「漸減邀撃作戦」による、最終的には戦艦部隊の大艦巨砲主義による艦隊決戦により、限定戦争に勝利する、という日露戦争の焼き直し対米版ともいうべき海軍戦略にこだわり過ぎて、兵術思想も艦隊編制も艦体設計も、全てに亘って合理的に過剰適応し過ぎていたものと思われます。従って、この路線や思想を逸脱する自由な発想や試みを否定したり拒絶したりする傾向も、その反面の短所として生じていたと考えられるのです。

   これは、後に山本五十六連合艦隊司令長官が言った、優秀とされる参謀たちは、みんな金太郎飴みたいに、誰に何を聞いても、皆同じ答えをする、という結果・効果を生んでしまったのです。そのドクトリンやパラダイムが不変であれば、その路線を歩む限りに於いては、ある意味で理想的な「兵術思想統一」であったと言えますが、科学技術や世界情勢の変転もあり、常に革新的な変化が起きている現実界に於いては、その変化に柔軟に対応することが、逆に困難となり、寧ろこうしたエリートの優秀者こそが、変革を阻止する歯止めにもなってしまう場合があるのです。これは失われた30年かどうかは知りませんが、ある意味では、まさに現代日本の大企業が直面している、自己革新ができないという症状にも繋がる事象かもしれません。

 前回取り上げた井上成美提督もそうですが、帝國海軍には自分より一段上の「より良き後輩を育てる」という伝統と美風があり、後輩たちのためであれば協力を惜しまないという姿勢が見られます。それは、軍令部系統の人々も同じであり、永野修身元総長にせよ、及川古志郎元海相にせよ、嶋田繁太郎元海相・総長にせよ、全く同じです。そしてその海軍精神は、上記で取り上げた富岡定俊少将も、中澤佑中将も同様なのです。海軍軍人は、皆、国のために一生懸命取り組み、より良き海軍にしよう、という海軍精神に根ざして努力を重ねておられたのであり、私利私欲や自己の保身栄達のためにやっていたのでは決してないことが、所謂世上一般の「派閥争い」などとは異なる点なのです。

   それでもその中で、「ものの見方や考え方の違い」は出てきます。艦隊派と条約派にせよ、軍令系統と軍政系統にせよ、わたくしたち部外者は、どうしても整理と分析、検討のために、人々をグルーピングし、グループ名をつけて分類し、その協同・協力関係よりは、どうしても対立・相反関係に目を向けて、相違を際立たせてわかりやすく図式的に把握しようとする傾向にあるのですが、実際の渦中にいる人々は、青色と赤色、白色と黒色、というようにはっきりと二色に塗り分けられているわけでもなんでもなく、その人によっての色の混ざり具合も、また色の強弱も、千差万別に異なるのです。それが複雑な人間の集団の実相であり、モデルと現実の根本的な違いであるのです。そうしたことを忘れて、全てを単純なモデル的図式に還元して単純化し、しかもそれを全てに適用しようとする安易な一般化によって、全てを理解・処理するという姿勢こそが「近代知性の傲慢」なのです。

 そうしたことを踏まえた上で、上記の中澤佑中将の「第十三編 主要回想録」から、次の部分を読んでみましょう。

・・・〔第九章 海上自衛隊幹部学校、水交会等における講話要旨〕

 一、海軍には伝統的美点や長所もあったが、第二次世界大戦の経過を見ると、反省すべき点が多々ある。私は終戦後約三年半巣鴨拘置所に服役中及びその後、引きつづきこれらについて研究し、後世のため参考に残したいと考えている。

 二、戦後出版された市販の戦記ものの中には事実と相違しているものが甚だ多く、当事者であり事実を知っている私共を顰蹙させる。

 これは著者や出版社が利益の追及に急にして、世人の多少の非難は承知の上で大衆に迎合せんがためと推察せざるを得ない。

 真摯な兵術研究に当っては、この点、充分に留意し、軽卒に出版物を鵜呑みにして結論を下さないよう細密な配慮が必要である。

 私は防衛庁の戦史室(*当時)は真実の記録を後世に残さなければならないと思っている。私が海軍大学校学生時代に東京帝国大学教授の三猪信三法学博士から法学通論の講義を受けた際「医者と弁護士には正直にものを言え」と教えられたが私は「医者と弁護士と戦史室編さん(*纂)官には正直に物を言え」と主張したい。

 三、私は少佐、中佐時代、米国に約二か年駐在し、米国の国力、戦力について知ることができた。昭和九年二月帰国後軍令部第一課(*作戦課)首席部員(*対米作戦班長)に補せられ、その後第二課長(*教育・演習)、第一課長(*作戦・編成)に補せられたが、日本の国力をもって米、英を相手として戦争をすることはとてもできない。米国に対し一〇対六で戦っても安心はできない。従って米英二〇対六では問題にならない。仮に英国海軍が三を東洋に廻すとして米国を一〇とし米英一三対日本六で図上演習をしたが究極において日本の敗けである。況んや長期戦となれば米国を屈服させる方策はない。太平洋はその名の如く平和で波立たず、日米は決して戦うべからずというのが私の信条であった。

 四、戦争抑止論は今日に始まったことではない。孫子の言える如く戦わずして勝つは兵の善の善なるものである。条約によって軍備を制限される場合、機力、術力とも最良状態に保持し、その威力を顕示するは抑止力である。しかし、ほんとうに開戦する場合には持久戦、総力戦に対する準備、即ち海上交通保護、防備施設、補給、航空機、艦艇、船舶の増勢、人的軍備等長期戦に対する裏付けが、重要な問題となるのでこれなくして戦争をしてはならないのである。

 五、わが海軍は、日清、日露戦争時代のように艦隊決戦兵力の整備に全力を集中、所謂月月火水木金金の猛訓練を実施し、艦隊の術力は向上し将兵の士気は旺盛で形の上では堂々たる艦隊を保持していたが、実際戦争の経過を見ると、彼我艦隊決戦は生起せず基地攻略の連続となり、「鹿を遂うもの山を見ず」で国力を遥かに越えた海域まで進出、国力尽きて敗戦となってしまった。

 六、戦争に関する研究の要あり

 私は過去を回想し、陸海軍とも戦争についての研究が不充分であったことを痛感する。これは明治憲法において、統帥と政治(内閣)が対立し総力戦に対処する戦争計画を持たずして大東亜戦争に突入したためであると思う。昭和十五年五月、私が軍令部第一課長(*作戦課長)のとき軍令部、海軍省の軍備関係者を集め戦争図演を実施した結果、南方資源地帯より石油、鉄鋼等を日本に輸送するため海上護衛兵力の不足が明らかとなったが、そのまま開戦となってしまった。また開戦には戦争終末点を予め決めねばならないのに今次大戦にはそれがなかった。

 七、「国防方針、用兵綱領」「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」等の策定に当ってはその意図、表現(字句)を明確にし、陸海軍間において同床異夢的解釈をしたり、異なった行動をとらないようにすることが大切である。

 例一、昭和十一年六月三日裁可の第三次帝国国防方針において「将来の戦争は長期に亘る虞(*おそ)れ大なるものあるを以て之に堪ふるの覚悟と準備を必要とす」(*原文片仮名)とある条項は起案者の意図は将来戦は持久戦、総力戦となるから、その準備が整わなければ開戦するなというにあったが今次大戦には無視された、これは「持久体制が完成しなければ外国と事を構え、または事を起してはならない」と明記すべきであったと思う。

 例二、昭和十五年七月二十七日大本営、政府連絡会議決定の「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」において

 (イ) 北部仏印進駐について海軍は援蔣行為遮断に重点を置き武力進駐に反対に対し、陸軍は武力進駐により南方進出基地の獲得を重視した。

 (ロ) 日独伊三国同盟締結について、海軍は日独伊同盟は米国を刺激し、日米戦争になる虞(*おそ)れがあるとし反対したるに陸軍は本同盟は米国を牽制し対米戦争を回避し得ると解釈した。

 八、計画が確定すれば宛(*あたか)も之が完成したかの如き錯覚に陥らないことが肝要である。

 昭和十八年九月三十日、私が海軍作戦部長のとき大本営は小笠原より、マリアナ(サイパン)ニューギニアに通ずる線を以て、絶対国防圏を設定した。これは兵力を配備し、防備施設を完成し はじめてその機能を発揮するもので少くとも半年を必要としたのであるが、計画ができるとすぐに東條総理が「日本は不敗の体制になりました。もうご安心下さい」と新聞記者に語った。私はこの記事が新聞にでると同時に参謀本部に抗議を申し入れ東條総理も反省されたことがある。

 九、現在(*戦後)の日本憲法の下で日本は海外派兵は行わず、専守防御(*専守防衛)の方針といわれる。戦前においてわが兵力は米英に比して少なかったけれども国防方針、用兵綱領に積極性があった。日本を防衛するために専守防御は許されない。専守防御をすれば必ず失敗すると思う。戦略的に守勢をとることがあるが攻撃の構へが大切である。

 十、海軍の人事は学校成績に偏重し、若干の例外を除き各学校恩賜組(優等生)を重要配置に用いた。これらのものはエリート意識が強く自己反省が足りなかった。明治維新以来の海軍の歴史を調べてみるとエリート組必ずしも海軍や国家に貢献しておらない。学校の成績に捉われず、エリート意識を持たず、自ら勉強努力させるようにし、人事当局、上級者は人材の発掘、登用に努力すべきである。わが海軍が物的軍備に重点を置き 人的軍備を軽視したことは遺憾である。

 十一、会議、研究会には景気のよい強がりをいうものが往々にして勝を制した。『日本とユダヤ』(*『日本人とユダヤ人』)という本の中に「全会一致の審議は無効だ」(*ユダヤ人の会議ルール) と書いてある。意見を同じうするものが集って議論をしてもナンセンスである。意見を異にするものが言い合い、第三者の位置に立って中正に判断決定することが大切である。

 各自の思索研究、体験に基き、意見があったら遠慮せず堂々と開陳することが肝要である。上命を唯「はいはい」と承(*うけたま)わり面従腹背的態度をとるのは罪悪である。

 十二、今次戦争の責任は陸海軍同等である。海軍は政治に拘らずとの思想が強く、国運に関する重大事決定にあたり軍政、軍令の最高責任者(*海軍大臣・軍令部総長)が正々堂々主張すべきを主張しなかったことは甚だ遺憾である。

 十三、戦史を研究し教訓を会得せよ 戦史は昔から今日に至るまでの事実を示すもので含蓄ある合理的なものと思う。しかし「論語読みの論語知らず」と同じく「戦史読みの戦史知らず」の感がある。日本人は精神力を過信し米国人の精神力を下算した。日独伊三国同盟締結に当っても独伊の歴史、戦史、国民性、外交、信頼性等を研究する必要があった。

 十四、先見の明を養い、これが実現に努めることが肝要である。昭和十二年、山本五十六航空本部長は航空軍備の重要性を強調、同十五年小沢治三郎第一航空戦隊司令官は航空艦隊編成の急務を海軍大臣に具申した。昭和十六年一月、井上成美航空本部長は当面の軍備について適切なる意見具申(*新軍備計画論)をした。これらの先輩は、私利私欲に捉われず、読みが深く先見の明があった。

 十五、暗号は解読されていると心得よ 今次大戦において日本海軍の暗号は米国に解読されていた。

 十六、孫子の研究を奨める。わが海軍の用兵思想、軍備、艦隊訓練、海軍大学校教育等は、すべて艦隊決戦に重点が置かれ、軍令、軍政の枢要なポストに就く要路者の政治、政戦略、戦争等に関する研究が不充分であった。孫子の兵法(始計、謀攻、軍形篇等)の「兵者国之大事、死生之地、存亡之道」、「百戦百勝、非善之善者也、不戦而屈人之兵、善之善者也、知彼知己百戦不殆、不知彼而知己一勝一負、不知彼、不知己毎戦必殆」「勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝」は千古の訓言である。大東亜戦争開始時に要路にあった当事者に、この教訓が克く脳裏にありしや否や疑わざるを得ない。・・・(**前掲書239~243頁)

   これらは時代を超えて、誠に熟読玩味すべき内容なのです。(次回に続く)