海軍の高等教育機関として海軍大学校がありました。まず海軍士官になるには、俗に「(海軍)生徒三校」と呼ばれた海軍兵学校(兵科、江田島)、海軍機関学校(機関科、舞鶴)、海軍経理学校(主計科、築地)に入校し、各校の海軍生徒として三~四年間(時期により長短あり)修業して、卒業時に海軍(〔兵科〕・機関・主計)少尉候補生を命ぜられ、練習艦隊での内地及び欧米など外国への遠洋航海を経験し、その後連合艦隊等各艦上での実務教育を経て、海軍(〔兵科〕・機関・主計)少尉に任官しました。尚、兵科と機関科は海軍将校として、主計科・技術科・軍医科・薬剤科・歯科医科・法務科等は将校相当官として、海軍法制上は現役の将校並びに将校相当官を「海軍士官」と総称していました。

   この他、高等商船学校を卒後した航海科・機関科の商船士官を(兵科・機関科)予備将校とし、後には学士・学徒から志願して選抜され予備学生・予備生徒から予備士官(兵科・機関科・飛行科)として海軍少尉に任官した者、各科の優秀な下士官から任官する特務士官などがありました。技術科士官は造船科・造機科・造兵科・水路科の技術系士官が戦時中に総括されたもので、旧制大学の工学部や理学部の学生の志願者から選抜採用された海軍学生・海軍委託学生が大学卒業時に海軍造船・造機・造兵中尉(後に海軍技術中尉となる)等に任官しました。また海軍軍医科にも同様の制度があり海軍軍医中尉に任官しました。ちなみに慶應義塾大学の卒業生には明治32年に海軍主計少尉候補生の受験資格が与えられたといいます。その後一般大学や専門学校出身者にも、海軍の短期現役士官や、海軍予備学生・生徒を経て海軍予備士官となる道が開かれることになります。

   さて、上記の海軍生徒三校を受験するのは、旧制中学校(現在の中学三年プラス二年で、高校二年までに相当)の四年修了相当の学科試験に合格し、身体検査・面接などにも合格した青年が入校しました。(但し、学歴制限はないので中学生でなくとも受験は可能で、例えば高木惣吉海軍少将は高等小学校卒業後、働きながら通信教育で中学教科を独習して兵学校に合格し、さらに後年海軍大学校に進んで首席で卒業しています。)兵学校など海軍生徒三校は、こうしたことから三年間の旧制高等学校(現在の高校三年から大学二年の教養課程に相当)とほぼ同等でしたので、更にその上級の旧制大学に相当する海軍の高等教育機関が海軍大学校(以下「海大」と略称)ということになります。

   海大には時代による様々な制度の変遷がありますが、大要すればその学生の種別も、甲種学生(兵科将校対象の統率・戦史・戦略・戦術教育等が主体)、乙種学生(兵科将校対象の砲術・水雷術・航海術の学理や数学・物理学など予科科目主体)、専修学生・機関学生(機関科将校対象の甲種・乙種に相当する機関に関する高等学術など)、選科学生(各外国語専修他の高等教育)などがありました。

   但し、甲種学生の場合入学試験を受けられるのは、海軍大尉任官後一カ年以上の海上勤務乃至航空勤務経験を有し、かつ大尉任官後六カ年以内の者で、受験回数は三回限りという条件でした。海軍では海軍大尉に任官してはじめて一人前の海軍将校と見なしており、分隊長(陸軍の中隊長にほぼ相当)など部下の人事を預かるいわば管理職に就くことができました。つまり一人前の海軍将校としての勤務と経験を経て三十歳位の年齢でようやく受験できるのです。また時代やクラスによっての差異はありますが、大体は海軍兵学校の同期生の約一割~二割内外(實松大佐によれば平均十六%程度)のみが海大甲種学生に入学することができるという狭き門でした。しかし帝国海軍では必ずしもこの海大を卒業していないと提督(将官)に進級できないわけではなく、例えば野村吉三郎大将、加藤寛治大将、栗田健男中将、大西瀧治郎中将、木村昌福中将など少なくない提督は海大を出ていません。

   また帝国陸軍とは異なり、海大は必ずしも海軍参謀の養成機関というわけではなく「枢要の職員又は高級指揮官の素養を成す為、高等の兵学及びその他の学術を教授」する高等教育機関でした。そもそも海軍兵学校に合格するのが旧制中学のトップクラスの秀才であり、さらに戦前の日本では、家庭環境の問題はありますが旧制中学校に進学できること自体が難関(進学率は一割程度)であったので、その意味では海大卒業生は、難関の試験を突破してきた秀才の中の秀才であると言っても過言ではないわけです。

   この秀才たちに海大が教授した教育内容がどういうものであったかと言いますと、掲題の実松譲著「海軍大学教育 戦略・戦術道場の功罪」**昭和50(1975)年光人社刊の「付録Ⅶ 第26期甲種学生授業予定表」(**同書)から見てゆきたいと思います。實松譲海軍大佐は、海軍兵学校51期、海大34期で、巡洋艦五十鈴航海長、海軍省副官兼大臣秘書官(米内光政海相)、在ワシントン駐米大使館附海軍武官補佐官(開戦時)、交換船にて帰国後は大本営参謀(軍令部第三部第五課米国班長)兼海大教官を務めた方です。尚、本付録資料のカリキュラムで教育された海大26期は大正15年12月1日入学~昭和3年12月6日卒業で、大西新蔵中将、矢野英雄中将、横井忠雄少将、中澤佑中将、有馬正文中将、西田正雄大佐、松田千秋少将、黒島亀人少将、大野竹二少将など22名が学んでいます。

   その教育内容の概要は、統帥10時間(*0.5%)、戦略406時間(*20%)、戦術580時間(*29%)、戦務215時間(*11%)、戦史245時間(*12%)、軍政264時間(*13%)、一般科目(語学、講演他)280時間(*14%)の計2000時間の講義・講演・兵棋演習などの授業時間に加え、兵学作業160時間・演習見学300時間の計460時間が実地研修的内容となっており、総計は2460時間の教育でした。(同上書79頁、268~271頁、*裕鴻註記、授業計2000時間に占める比率)

   さらにもう少し詳しく見ますと、まず統帥科目は統帥(10時間)と精神科学(20時間)から成っていますが、26期では精神科学には時間配布はありませんでした。戦略科目(計406時間)には、戦略(30時間)、図上演習・兵要地学(370時間)、諜報計画(6時間)があり、戦術科目(計580時間)には、戦術(80時間)、兵棋演習(300時間)、陸軍戦術(30時間)、築城及地形学(20時間)、艦隊運用(30時間)、砲熕兵器(20時間)、水雷兵器(30時間)、潜水艦(15時間)、機関(20時間)、造船(20時間)、航空機(15時間)がありました。そして戦務科目(計215時間)は、戦務・戦務図上演習(135時間)、局地防備(15時間)、艦務(5時間)、出師準備計画(10時間)、運輸計画(10時間)、通信計画(15時間)、無線電信(10時間)、暗号(10時間)、軍陣衛生(5時間)となっています。

   また、戦史科目(計245時間)は、日本海戦史(90時間)、米国海戦史(45時間)、欧州海戦史(110時間)、外交史(20時間) から成っていますが、26期では外交史には時間配布がありませんでした。そして軍政科目(計264時間)は、軍政(80時間)、列国事情(28時間)、経理(34時間)、法学通論(20時間)、行政法(20時間)、国際法(34時間)、憲法(34時間)、刑法(14時間)から成っていました。この他一般科目(計280時間)として語学(英仏独語のうち一語を専修、140時間)と講演の受講(140時間)がありました。

   こうして見てみると、戦略(30時間)、戦略図上演習・兵要地学(370時間)、戦術(80時間)、兵棋演習(300時間)、戦務・戦務図上演習(135時間)の合計915時間が、授業合計2000時間の46%を占め、さらに実地の兵学作業160時間・演習見学300時間の計460時間を加えた1375時間は、教育総計2460時間の56%を占めていることがわかります。戦務とは現代でいうロジスティックスを含む実際に戦略・戦術を実施するために必要な総合管理業務を意味します。

   その一方で、戦史科目(計245時間)、軍政科目(計264時間)、語学・講演の一般科目(計280時間)の合計789時間も、授業合計2000時間の40%弱を占めており、国内外への視野を広げる教育への志向も感じとることができます。

   しかしその重点が図上演習・兵棋演習、つまり現代でいうシミュレーションにあったことは間違いなく、そこで演練されたのが主に「漸減邀撃作戦」を基幹とする日米艦隊決戦であったわけです。實松大佐著の上記書**198頁によれば「図上演習においては、主として決戦をくわだてる艦隊の接敵までの戦略行動について、また兵棋演習においては、主として決戦場面における艦隊の戦術行動について研究する」のであり、昨今のコンピューター・ゲームに馴染んだ世代ならば容易にイメージを掴めると思いますが、「図上演習の戦略場面」では、まずは広域の場面で情勢を把握しつつ敵艦隊との間合いを詰めて「接敵」まで持ち込み、「兵棋演習の戦術場面」では、狭域の場面での具体的な敵艦隊の動きと味方艦隊の動きによる戦闘行動の演練を行うわけです。

   この兵棋演習は、アメリカ・ロードアイランド州のニューポートにある米海軍大学校でも盛んに行われていました。筆者も2014年6月に同校を訪問した際、当時の兵棋演習の模様を展示したパネルや、実際にその床面で兵棋演習を行っていた大ホールを拝見しました。ここには大正12(1923)年に同校を訪問した井出謙治大将に随行して当時の山本五十六中佐もその足跡を残しています。その際、校内を案内していた米海軍士官がある教室で壁面に貼ってあった日本近海の海図(様々な線が引かれていた)を慌てて隠そうとしたので恐らくはやや気まずい雰囲気となったところ、山本中佐はニコリと微笑んで「この辺は海軍戦略を研究するにはいい場所でしょう」と言うと、彼もまた「その通りです!」と答えて破顔一笑したというエピソードが伝えられています。(弊共著「山本五十六 戦後70年の真実」NHK出版新書66頁ご参照) 山本提督の機転の利く茶目っ気のある人柄と相手を思い遣るユーモアのセンスを示す逸話だと私は思っています。

   この兵棋演習の用具一式は、明治31(1898)年の秋に当時米国に駐在して海軍戦術を研究していた秋山真之少佐が購入して、その頃は築地にあった海軍大学校に寄贈していました。實松大佐著の上記書**によれば、

・・・兵棋というのは、将棋の駒みたいなものである。戦艦、巡洋艦、駆逐艦、水雷艇などの艦種別にコマをこしらえ、それぞれに攻撃力、防御力、運動力、通信力をあたえる。これらのコマ(艦型)によって、戦隊や駆逐隊などをはじめ、艦隊を編成する。演習者は敵味方に分かれて、それぞれ司令長官や司令官などになり、統監のしめす「動(*どう)」によって、その時限中(*ターン)における自隊の行動を紙片に書いて(簡単なことは口頭で)艦型係を通じて統監に提出する。艦型係は、演習者の要求どおりコマを兵棋盤上で動かして定められた標準にしたがい、行動の成果を判定する。たしかに、兵棋演習は、図上演習にくらべて、はるかに立体的であり、実戦で要求されるであろう転瞬の判断と決心、および処置を演練するのに役立つにちがいない。・・・(同書**164頁) 

   これは、もともと紙製の戦略・戦術のボードゲームをコンピューター化した現代のシミュレーション・ゲームやロールプレイング・ゲームの元型になったものに他なりません。

   ちなみに海大では、各界一流の人物に講演や実演をしてもらったと言いますが、例えば甲賀流第十四世で昭和の忍者と呼ばれた藤田西湖氏や、将棋の木村義雄名人なども招いたといいます。山本五十六中佐が上記の井出提督欧米視察随行に出発するまでの、海大軍政教官であった大正10(1921)年12月から大正12(1923)年6月までの時期ですが、やはりこの木村名人を招き講演してもらったときのことを實松大佐はこう書いています。

・・・そのときは、ワシントン海軍軍縮条約(*大正11(1922)年2月締結)によって、英・米・日の主力艦保有量が五・五・三(*10対10対6)の比率に制限されてから、ちょうど一年ほどたっていた。木村を招いて「角落将棋」の定石講義を聞いたのも、そのころのことだった。角落将棋とは、つまり「寡(*少数)を以て衆(*多数)を制する」の法にほかならない。「角落将棋といっても、その定跡はいたって簡単なものです。すこし勉強すれば、定跡どおりの駒組はだれにでもできる。しかし、実力がなければ、せっかくの駒組もなんの役にもたたない。いかに優勢な艦隊を海に浮かべてみたところで、実力のない者が、堂々たる駒組をしたようなものである。角落将棋は、それだけの実力差の者が指せば対等の勝負であるが、二枚も三枚も実力のちがう相手ならば、角落をもって容易に勝ちうるわけである。問題は、いかにしてその実力を養うかにある」耳を傾けていた教官も学生も、五・五・三の比率、要するに実力を養うことだ!という希望が油然(*ゆうぜん)とわき上がってきた。ついで木村は、「将棋にかける実力とは、技倆と体力と精神力とを総合したものである」と説き、それから駒それぞれの特長をのべ、その用法さえ誤らなければ、「歩兵」二つで「飛車、角行」をたやすく生け捕れることを明らかにした。それは、飛行機とか潜水艦で主力艦(*戦艦)を撃沈するのと同じであった。最後に木村は、将棋における犠牲の精神を説明して、この日の講演をおわった。・・・(**同上書81~82頁) 

   山本長官が将棋盤を「兵棋盤」と名付けてしばしば参謀たちと指していたのも、凝り固まった定跡的な戦艦主力の「漸減邀撃作戦」的発想ではなく、将棋の持つ無数の順列・組み合わせの可能性による、融通無碍の柔軟な戦略思想のセンスを磨くことにその意があったのかもしれません。インド洋作戦やミッドウェー海戦時に空母赤城に同乗取材していた海軍報道班員の牧島貞一氏(*報道カメラマン)は、赤城士官室の情景と題して航海中に士官たちが囲碁・将棋・トランプを楽しむ様子を書き残していますが、特に南雲司令部の航空乙参謀であった吉岡忠一少佐(*のち中佐)が千早猛彦大尉(急降下爆撃隊長)や山田昌平大尉らを次々と将棋で打ち負かし、次のように語っていたといいます。

・・・「将棋というやつはね、海軍の作戦とじつによく似ているのだよ」と、私に話しかけた。「まず歩は駆逐艦だ。角と飛車は航空母艦さ。飛行機を遠くまで飛ばせて、敵をやっつけるからね。王様は旗艦だ。『大和』みたいなやつさ。それからこの金だが、こいつは戦艦。銀は巡洋艦、桂馬は潜水艦だ。ぴょこんぴょこんと、敵の意表をついたところを攻撃するだろう」「香車はなんですか」「こいつは特殊潜航艇だよ、一気に敵の心臓部に突っ込むが、帰ってこない」「なるほど……」「山本五十六大将は、とても将棋が好きだよ。ひまさえあれば、参謀と将棋をさしている」「すると、日本海軍が強いのは、将棋に負うところ、きわめて大なり、というわけですか」「まあ、そうだ」吉岡少佐は、いかにも、わが意を得たりと言ったように笑ってみせた。「(*吉岡)参謀は、長官と将棋をさしたことがありますか」「ないね……。しかし僕のほうが強いだろう」「ハハハハ……。うぬぼれが強いぞ」と、村田(*重治)少佐(*艦攻隊長)が突然、大声をあげて笑った。「バカなことをいうな、将棋にかけては、わしは連合艦隊随一だよ」これを聞いて、みんな、一度にドッとふきだした。「連合艦隊とは大げさだ。まあ『赤城』随一ぐらいでしょう」千早大尉が言った。「いや本艦の兵隊のなかには、手荒く強いやつがいるぞ。まあ士官室のなかでは一番強いことにしておいてやれ」村田少佐があとをつづけた。・・・(*牧島貞一著「続・炎の海」光人社NF文庫84~86頁より)

   現代の米国海軍でも、西洋の将棋であるチェスが愛好され、艦内にチェス・クラブがあり休憩時間に対戦を楽しんでいるといいます。これは実際に船乗りの海上生活を経験した者にしかわからないと思いますが、どんなに多忙な状況にあっても、船上では業務とともに人間としての生活があるのです。人間が生物である以上、昔のテレビ・コマーシャルではありませんが本当に「24時間戦えますか?」と聞かれてもその答えは「NO」なのです。それがたった24時間、あるいは極端に48時間、乃至はよく災害時に話題となる72時間であれば、場合によってはほぼ不眠不休で活動することができるでしょう。筆者もある船会社で30歳代の始めに大変苛烈な業務状況があり、まる二日間完全にオフィスで徹夜して昼夜連続で仕事を続け、三日目の朝を迎えてほとんど気を失うような感じで、事務室の床に横になって眠った覚えがあります。仕事の方はなんとかそれで間に合ったのですが、恐ろしく体力を消耗したことも事実でした。つまり苛烈な戦場では、そして日頃から心身を鍛錬している軍人ならばもうあと半日か一日位体力がもつのかもしれませんが、それでもとにかく一睡もせずに連続で働くのには物理的限界があるのです。機械で動くロボットじゃないのですから。

   筆者は外国を巡る大型外航商船に12年間乗組み、小型の業務船に5年間乗り組んでいましたので、計17年間(*本稿執筆当時)の海上勤務を経験しました。従って机上の論理ではなく、船上生活の現実から申すことなのですが、船乗りも人間として生きている以上、食事も入浴も睡眠も必要でありまた尾籠な話で恐縮ですが当然排便も必要です。もちろん軍艦の中でも同じ生命体である人間である以上、もとより食事も睡眠も必要であるし、24時間働き詰めということでは現実問題として生きてゆけません。

   しかし商船であっても陸上の勤務よりは苛烈です。忙しい時には一日に15~16時間働くこともありました。残りの(各業務で分断された休息時間の合計)8時間ほどで睡眠や食事や入浴などをこなす生活を現実に筆者もしたことがあります。そういう生活が連日続くのです。しかしその中でメリハリも船乗りには大切です。板子一枚ではありませんが鉄板の箱に閉じ込められて、筆者の頃は年間10ヶ月連続で乗船していましたから、精神衛生上の健康を保持するためにも、僅かながらもプライベートな時間はとても大切です。筆者の場合は船上でスケッチを描くことが唯一の楽しみで、その僅かな時間だけは仕事を忘れて没頭していました。そうでもしなければどこかがおかしくなるのではと思ったものです。

   だからこそわかるのですが、軍艦の中でも航海中は将棋も指せば囲碁も打ち、またコントラクト・ブリッジに興じることもあったのです。ちなみにネルソン提督の時代にも英国海軍の軍艦上ではホイストというカード・ゲームを艦長や司令官が士官たちと楽しんでいました。仕事をする時は全力を尽くすけれども、僅かな余暇は少しでも楽しんでウサを晴らすことが、船乗りとして長い航海を健全に過ごすための秘訣なのです。筆者の海上経験で言えば、それをも否定するコチコチの真面目すぎる者はせいぜい三ヶ月しかもちません。結局は船を降りて去ってゆくことになるのです。

   最後は余談になりましたが、そういうわけで山本長官が艦内で将棋を指していたことを、同じ船乗りとしては決しておかしいとは思わないのです。そしてそれぞれの役職としてやるべきことをやり、指示が終わればあとは部下に任せることも大切です。四六時中寸暇もなく見張られていては同じ船乗りである部下としてもやっていられないし、自分は信頼されていないと思うし、また委ねられた責任のある職務のやりがいも感じなくなるものなのです。海軍でも商船でも海上では、上下左右の相互信頼と、当面する任務には全力を尽くすこと、誰もがやりたがらないような難しいあるいは嫌がられる仕事を率先躬行して自から取り組むこと、そして自分より一段上の人材になれるようにより良き後輩・部下を育てることが肝心なのです。山本長官をはじめ海軍軍人は、こうしたことを身につけていた船乗りであったことを忘れてはならないのです。