本シリーズは海軍史の渉猟なのですが、前回取り上げた「陸軍大学校」について引き続き今回も取り上げたいと思います。それは帝国海軍史を正しく理解するためには、どうしても帝国陸軍史を勉強し、両者の共通点とともにむしろ相違点をきちんと把握しなければならないと思うからです。特に米内光政海軍大臣・山本五十六海軍次官・井上成美海軍省軍務局長の時代に海軍が、陸軍の強力に推進する日独伊三国同盟締結(第一次)に徹底的に反対した歴史は、根本的に帝国海軍と帝国陸軍の視点・視野と志向性の違いがはっきりと現れたものであると思います。

   それはもとより一概に一言で表現できるほど単純なものではなく、海軍、陸軍それぞれの建軍以来の様々な基礎・基盤と発展過程の違いが織り成すものであるわけですが、そもそも海戦と陸戦の違いや、自らに課している両組織の存在理由(Raison d’etre)の相違が大きく影響しているのではないかと思われます。

   その根基となる「ものの見方や考え方」を探る意味で、陸軍の最高教育機関である陸軍大学校でどのような教育をしていたのかを知ることは、大変重要であると考えられます。

   掲題の上法快男陸軍主計少佐(芙蓉書房会長)編、高山信武(たかやましのぶ)陸軍大佐著による「続・陸軍大学校」(昭和53(1978)年刊行) の第一部第四章「陸大教育の反省と問題点」の内容を鍵としてこの点を見て行きたいと思います。まず著者の高山陸軍大佐の略歴は次の通りです。

   明治39(1906)年10月29日生まれ~昭和62(1987)年10月26日没(満80歳)、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、昭和2(1927)年陸軍士官学校39期卒業(砲兵科将校)、昭和10(1935)年陸軍大学校47期首席卒業、横須賀重砲兵連隊中隊長、2・26事件東京軍法会議判士、参謀本部部員・大本営参謀、独伊軍事視察団員、開戦時参謀本部作戦課員、陸軍省軍事課勤務、最終階級は陸軍大佐、戦後は復員庁を経て警察予備隊から陸上自衛隊に進み、昭和37(1962)年陸上幕僚副長、昭和39(1964)年退官、最終階級は陸将。

   尚、本ブログの別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか」 (27)~(31)及び(47)(48)にても高山陸軍大佐の著書を取り上げておりますので、ぜひお読み戴きたいと存じます。『なぜ日本はアメリカと戦争したのか(27) 参謀本部作戦部内の陸軍開戦トリオ』

本シリーズ(24)「日本の『無謬性の文化』の過ち」で触れた陸軍大学校第47期首席卒業の俊英、高山信武(たかやましのぶ)元陸軍大佐(陸軍士官学校第39期、戦後…リンクameblo.jp

   さて次に、上記第一部第四章の項目立てを見てみたいと思います。

「敗戦との関連性を考える」「陸大教育の功罪」「戦争指導は充分に研究されていたか」「高度の国家的国防研究機関のなかったこと」「戦略・戦術の研究は果たして当を得ていたか」「仮想敵国と大陸作戦偏重について(海洋作戦の研究不足)」「戦争諸要素に対する研究反省について」「精神力は何故重視されたか」「物的戦力に対する考え方」「弱者の戦法について」「メッケル式教育の功罪」「いわゆる作戦第一主義について」

   この項目名だけを読んでも、近現代史や戦史に詳しい方ならば大筋の内容が読み取れるのですが、まずは同書を古書にても入手され、ぜひ全文を読んで戴きたいと思いますが、以下に少しずつ鍵となる文章を拾い上げてみましょう。(以下、*裕鴻註記・補遺)

・・・「陸大教育の功罪」:(*前略)満州事変の勃発により、世界各国は日本軍の活躍に危惧の念を抱きはじめ、支那(*日華)事変への拡大と、国連(*国際連盟)の脱退から日独伊三国同盟への発展等、相続く日本の自主積極行為は、とくに英、米、ソ(*連)、支(*中華民国)等に対し、絶大な脅威を与えるに至った。そして、その推進力の中心となったのは軍部であり、なかんずく陸軍の責に帰するところが多かったといわざるを得ないであろう。しかも、その陸軍の中枢にいた人たちは、いずれも陸軍大学校で教育を受けた将帥であり、幕僚である。この幹部たちの行跡を通じて、陸大教育の功罪を反省することは、意義ないことではないと思われる。・・・(*同書85頁)

・・・「戦争指導は充分に研究されていたか」:戦争指導に関しての陸大における教育は、(*中略)とくに戦争指導という課目をとりあげて、計画的に教育するようなものではなかったのである。したがって、陸軍の中枢に勤務する幕僚たちも、いわゆる戦争指導なるものについての認識は、極めて浅薄なものであったといわざるを得まい。(*中略)

   もとより戦争指導は、政治と軍事と一体のものでなければならない。したがって、これに関与する人たちは、政戦両略について一通りの心得がなければならない。しかし、大東亜戦争発足当時の実情は、政治家は軍事を理解せず、軍人は政治に無知であったといわざるを得ない。この、互いに相手を識らぬ両者が談義しても、一致点を見出すのは至難であったにちがいない。結果的に軍部が力をもって押し切ったといわれても致しかたあるまい。即ち、大東亜戦争に関するかぎり、戦争はあっても、戦争指導はなきに等しかったのではあるまいか。(*中略)

    (*米英等)連合国側の勝利は、連合諸国の団結即、連合作戦という大戦略の勝利であり、(*日独伊)同盟国側の敗因は、戦争指導の失敗が大きく影響したというべきであろう。陸大において、何故に戦争指導に関する教育を重視しなかったか。――察するに、“軍人は政治に関与すべからず”との至上命令が、政治との密接な関係を持つ戦争指導教育を忌避ないしは敬遠せしめた一つの原因ではあるまいか。(*中略)

   満洲事変直後、日支(*華)間に和平のためうつ術はなかったのであろうか、日支(*華)事変さ中に、話し合いをより有効に進めることはできなかったのであろうか、(*日独伊)三国同盟締結にあたって、政府と軍部の間にどの程度の話し合いが進められたか、北進か南進か等々、これら日本の進路を決定する段階で、戦争指導の衝にあたる人々は、いかに検討し、協議し、努力を重ねたというのか。その他、日米交渉の段階において、はたまた日本の運命を決した南部仏印進駐の時点において、政府はいかに将来を予測し、かつその対策を検討したか等々、いわゆる戦争指導当局者の活動が果たして充分であったかについては、疑を容れざるを得ないのである。まして、大戦突入以後においては、日本政府としての戦争指導は皆無であったと断言してもよかろう。――文人、武を軽んじて国が紊れ、武人、文を無視して国を滅ぼしたというのであろうか――・・・(*86~88頁より抜粋)

・・・「高度の国家的国防研究機関のなかったこと」:陸大に戦争指導講座がなかったと同時に、国家にも高度の国防や、戦争指導等を研究し、教育する場がなかった。昭和十六(*1941)年一月、総力戦研究所が開設されたが、時既に遅く、しかもその研究内容も極めて初歩的なものに過ぎなかった。即ち戦争に突入した場合の総力戦をいかに指導するか、人的、物的総力戦の問題であって、外交、謀略等全般に亙る戦争指導方策とは程遠いものであった。政治家と外務官僚らは、軍事を理解することによってはじめて戦争指導の緒に就き得る。現実は政治家たちは軍を敬遠した。また軍部は政治の優柔不断を責めて、しばしばこれに独断先行(*ママ)した。かくして、両者の話し合いはなかなか結実しない。お互いに相手に対する理解がなく、敬遠したり、空疎な議論ばかりしているのでは、結論は得られないのである。真に政戦両略の一体化をはかるためには、常設国家の機関として、広義国防研究の場が必要である。――真の理解と融和は、相互に相手を識ることによって生まれる――・・・(* 88頁)

・・・「戦略・戦術の研究は果たして当を得ていたか」:(*前略)端的にいって、英、米、独等の諸国家は、強大な国力と技術力を背景としてその近代装備の戦力を誇り、その作戦的運用もこれを基調としてつくられていた。したがって、これら諸列強と同列に対比することに若干の抵抗を感じないわけにはゆかないが、強いて述べれば次のような批判がでるであろう。

   (1) 米、英等の量、質にまさるものをいわゆる強者の戦法といえば、わが日本軍戦法は、旧装備かつ量に劣るいわゆる弱者の戦法とでもいうべきであろう。したがって、わが戦法には、精神力と指揮統帥の妙に期待するところが多く、攻勢思想と、敵の弱点に乗ずる奇襲先制用法を極端に推賞した。夜襲の重視、白兵突撃と肉弾特攻の採用等また然り。

   (2) 満洲事変以来、日本軍は劣等装備の支那軍に対し負けることを知らなかった。これは日本軍の士気に好影響を齎した反面、最新技術を導入した新兵備の採用と、その運用に対する努力、研究を怠る結果をも招来した。本件に関しては、その根底に国家予算の制約があったとはいえ、軍自らも大いに反省を要するものがあるであろう。とくにノモンハン事件等は、まさに猛省の機会であったのではあるまいか。

   (3) 作戦用兵に関する研究と教育の根底において、長期大持久戦に関するものは殆んどなく、短期決戦思想や殲滅戦主義に偏重した。たまたま持久戦の研究が行なわれても、短時日の持久作戦の後、最終的には攻勢により決戦を求めるというのが殆んど定石であった。

   (4) 陸海協同作戦の研究不足は、政戦両略の不一致ほどのことはないにしても、互いに相手を識る程度が薄く、両者の協同作戦はしばしば円滑に行われなかった。陸大における事務的、局部的協同演習に止まることなく、更に深く相手の特性を研究すべきであろう。・・・(*89~90頁)

・・・「仮想敵国と大陸作戦偏重について(海洋作戦の研究不足)」:明治以来、陸軍は殆んど仮想敵国はソ連に限定せられ、陸軍の作戦用兵は大陸作戦に偏重した。たまたま対米作戦計画の場面もなしとしなかったが、それとても比島作戦に限定されていた。したがって陸軍の戦略・戦術の研究は殆んど大部分、大陸における運用に終始し、海洋作戦、島嶼作戦の研究など殆んどかえりみられなかったのが実情である。(*中略)実戦の場において、開戦後一年を経ずしてわが方はこの制空・制海権を完全に喪失した。そこに今次大戦のわが敗因が存在するのであるが、その以前に陸海軍協同して、広大な戦面における海洋作戦の研究を更に深く追究すべきであったように思う。即ち、

   (1) 島嶼守備の陸軍と、海洋上の海軍機動部隊との協力により、いかにして必要海域上の制空・制海権を確保すべきか、

   (2) 右必要海域の範囲をいかに選定すべきか、最悪の場合、これをいかに最小限に限定して、その確保の方策を講ずべきか、

   (3) 右海域内に進攻し来る米陸海軍部隊に対し、わが陸海軍部隊はいかに協同してこれを殲滅、撃退すべきか、

   (4) 海洋上における長期持久作戦に耐えるため、陸海協力のうえ、攻防宜しきを得ていかにして敵の企図を挫折せしめるか、

等について、事前に充分に検討すべきであった。とくに陸軍としては、米本国への攻撃作戦など思いもよらず、来攻した米軍を反撃する程度であって、いわゆる決め手のない戦いである。王将なき相手と将棋を指すようなもので、とりつく島もない感じである。当然長期持久作戦にならざるを得ないのみならず、陸軍としては海軍の活躍に依存する以外に道はないのである。何故にこの点について更に深く掘り下げて研究しなかったのであろうかを痛感する。・・・(*90~91頁)

   (*因みに、そもそもそうであるならば、陸軍は何故対米英戦争を推進したのであろうかという疑問が湧きますが、対米戦は海軍に任せて負ければ海軍の責任だという意識もどこかにあったのではないかと疑われるところです。)

・・・「戦争諸要素に対する研究反省について」「精神力は何故重視されたか」:(*前略)問題は、これ(*精神力)を重視し、これに依存する余り、他の諸要素例えば物的戦力ないしは戦略、戦術等への影響がどうであったかということである。即ち精神力重視に偏して、物質力を軽視する傾向がなかったかということと、戦略戦術も精神力を主体とした日本流戦法に徹して、独善的思想がなかったかと案ぜられる次第である。但し、この際徹底的に反省しなければならないことは、何故に日本軍が精神力重視を強調したかということである。即ち国力、物力の乏しい日本軍としては、精神力に依存する以外には活路はないのだという考え方が根底に存在したということである。しかし、この考え方は、国として将来絶対是正しなければならない。・・・(*後略、92頁)

・・・「物的戦力に対する考え方」:日本軍が物質力を軽視したという端的な批判はもちろん当を得たものではない。予算や物の不足からやむを得ず諦めたというのが真相である。しかし、その物質力の取得に最大限の努力を払ったかという点については必ずしも問題がないとはいえない。物的資源の乏しい日本においては、物の取得はたいへんである。鉄、石炭、石油その他あらゆる工業資源、軍需資源等すべて外地に依存した。かるが故に(*ママ)日本全体としても、とくに軍部としては、物に関するかぎり節約ムードが優先していた。・・・(*攻略、92頁)

・・・「弱者の戦法について」:(*前略)いかに戦術がすぐれ、部隊が精鋭であっても、兵力量に二倍以上の差があった場合には、劣勢軍に勝機はないというのが兵学の常識でもあり、戦史の立証するところである。兵器、装備に格段の差があった場合も同様である。日本の戦術は、前述の精神力重視、物力非重視とも関連して、極言すれば白兵突撃主義に偏していた。

 戦略思想も、作戦第一であり、兵站軽視の思想が露骨に横行した。武士は食わねど式の旧武士道思想が活きていたといったら過言であろうか。日本陸軍の作戦参謀には、兵站補給は俺に続けといった風の思い上りがないとはいえなかった。情報軽視の風潮も感ぜられた。本来作戦計画立案にあたっては、作戦、情報、兵站の三者参謀が協議研究し、事前に調整を終えて作成するのを本則とする。しかるにややもすると作戦参謀が先行し、情報を軽視して敵情を無視したり、兵站を疎外して弾薬糧秣の補給を断たれたりすることが少くなかった。これは一つには支那(*日華)事変の影響が災いしたのである。支那では、しばしばこの作戦先行が大禍なく済んだことがあった。しかし熱帯不毛地や、海洋島嶼において、優良装備の米英軍相手の戦争では、そうした甘い考え方は絶対通用しないのである。その好例が、ガダルカナル作戦であり、インパール作戦である。インパール作戦こそ、兵站無視の典型的作戦であり、糧食、弾薬の補給を欠いて、三万の死者と五万の傷病者を出して惨敗した。ガダルカナル作戦は、情報軽視による敵情判断の誤りと、兵站軽視の輸送、補給難とが重なって、これまた大敗を喫した。“腹が減っては戦(いくさ)はできぬ”とは昔からの訓言であり、“敵を知り、己を知れば百戦殆からず”も、孫子以来の戦訓であるが、不幸、支那事変で自主的作戦指導に終始した日本軍は、作戦第一、作戦独り角力の風潮から脱しきれず、ひとりよがりの戦略に自滅した感なきにしもあらずであった。――情報軽視、兵站無視の戦略は近代戦には通用しない。作戦は、情報、兵站と一体不可分である。・・・(* 93~94頁)

   「メッケル式教育の功罪」:メッケルは、明治十八(*1885)年ドイツから招かれて、日本陸軍大学校の講師として着任した。従来フランス陸軍方式を採用していたわが陸軍は、メッケルの来日を期として、判然とドイツ流兵学に転進した。(*中略)メッケル教育の第一の特長は、あくまでも原則を重視し、彼の応用戦術も原則をいかに活用し、運用するかに力点をおくことであった。これがため彼は学生教育にあたっては、まず操典(*今日でいうマニュアル)類の講述からはじめるのを例とした。学生としてはいささか物足りない感じがしたようでもあったが、反面、原則に立脚した堅実な戦術眼を養成された。メッケル教育の第二の特長は、兵站教育を重視し、作戦用兵には兵站補給が不可欠であることを強調した点にあった。彼は日本軍の予想戦場は大陸にあることを洞察し、それがためには確乎たる兵站運用を戦略の絶対要目として重視したのである。(*中略)メッケルによって育成された幕僚たちが、日清、日露の両役に偉功をたてた。この両役を通じ、異国である大陸において、わが国として未経験の大軍を動かし、兵站補給その他後方運営にいささかも支障を来さなかったのは、彼の兵站教育の成果に負うところが大であったといえよう。(*中略)

   以上のように、メッケルの残した功績は絶大であるが、同時に彼の残した弊風も必ずしもなしとはしなかった。その一つに、陸大教育がややもすると議論を重視したということである。議論上手が上位の成績をかちとる傾向がなしとしなかった。議論達者必ずしも不可とはいわないが、この議論尊重の風潮がややもすれば陸海軍の疎隔をもたらし、或は軍部と政府との衝突を招来した一因をなしたともいえるのではなかろうか。また、メッケルの戦術が原則重視に徹したことは極めて評価される反面、いささか硬直に過ぎ、独善的傾向がなかったか、即ちもう少し、柔軟自在な考え方も尊重すべきでなかったかと反省される。・・・(* 95~96頁)

・・・「いわゆる作戦第一主義について」:満洲事変以来大東亜戦争開戦に至る経緯を観察し、日本軍部(*主に陸軍)の行動を反省するとき、なぜか“作戦第一主義”の印象を強く受ける。満洲事変においては、現地部隊(*関東軍)が兵力を行使してまず敵に一撃を与え、熱戦を展開して然る後に(*陸)軍中央部が行動を起し、政府がこれに追随する。もちろん、現地軍が行動を起すのには、相手方にそれなりの原因が先行したことにもよるが、なぜか外交も、戦争指導も、作戦にひきまわされた印象を受ける。

 大東亜戦争発足の経緯をみても、作戦計画が先行し、陸海軍の協定や、各種作業準備が漸次これに追随する。そして、随時作戦行動可能の態勢に置かれたまま、政府は事態を審議し、外交交渉が行われる。いわゆる“戦争を辞せざるの決意”のもとに、外交が進められ、部隊の移動、時として進駐等が断行される。この作戦第一の方式が果たして是か非かは、大いに検討を要するところであろう。わが方としては、この方式によって前進後退自由であり、和戦両様の構えであるが、相手側(*米英側)としては或は恐喝、威嚇の態度と受けとるかもしれない。作戦的には、この方式は万一の場合に対処して、極めて有利であることには相違あるまい。しかし、平和的な話し合いを強く考えるならば、この右手に剣、左手にペンの姿勢は必ずしも当を得たものとはいえないかもしれない。いわゆる戦争指導を重視するならば、第三国なり、相手国などの立場をも考えて、公正穏健な態度で交渉に臨む必要があるであろう。今次大東亜戦争においては、作戦が大きく存在して、戦争指導はなかったともいわれている。国際関係急を告げた場合には、いわゆる作戦第一は影を秘めて、戦争指導重視の観念に徹すべきではなかろうか。――作戦第一主義も陸大教育の大きな反省事項といえよう――・・・(*96~97頁)

 尚、同書の「著者あとがき」には次の文言があります。

・・・陸軍の戦略・戦術は殲滅戦思想を根底としていた。わが国力の現状にかんがみ、長期持久作戦は、わが体質にそぐわなかったのである。したがって攻勢を重視し、短期を主眼とする用兵思想に徹していた。しかも仮想敵国はソ連であり、予想作戦地は大陸であった。たまたま大東亜戦争は、陸軍の最も不得意とし、かつ経験もなく研究訓練も殆んど行われていなかった海洋作戦であり、そして長期大持久作戦であった。国策と作戦用兵の一致、陸海軍の作戦思想統合の必要性を今日程痛切に感ずることはないであろう。・・・(*429頁)

 つまり最も不得意で不慣れ、かつ研究も訓練もしていなかった海洋作戦主体の対米英戦争への突入を何故に陸軍は阻止しなかったのか、それが海軍主体の戦争であるから陸軍はその責任主体足り得ないのならば、対米交渉の鍵が中国からの撤兵(但し、満洲は含まず)にあったのだから、それを受け入れて対米英戦争回避に舵を切らなかったのはどうしてなのか…という疑問を拭うことはできません。陸軍中枢は、対米英戦争をするというのに、相手国や戦争全体の推移予測をよく研究もせずに突入したということを、この書はいみじくも示しているのです。(今回はここまで)