わが国の武士の基礎的な教養を支えていたのは、四書五経の素読・訓読でした。前回取り上げたI B Cパブリッシング社2008年版の[対訳ニッポン双書]新渡戸稲造著『武士道**』(樋口謙一郎・国分舞訳)には、「武士道の訓育に関する過程が主として剣術、柔術、馬術、槍術、兵法、書道、道徳、文学、歴史によって構成されている」(**同書160頁)と述べられています。

 この武勇と文徳の修練のなかで、兵法、道徳、文学、歴史の修学の基礎は、中国古典たる「四書五経」(「四書」とは、『論語』『大学』『中庸』『孟子』、「五経」とは、『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』)です。さらには、中国の歴史の流れを概観した『十八史略』や、著名な孫子の兵法などを含む武経七書(『孫子』『呉子』『尉繚子』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』)などの兵法書にも、武士たちは修学を進めていました。

 因みに山本五十六提督は、元々長岡藩の儒学者の家系に生まれたことも影響したのか、「司馬法」の次の警句をよく揮毫にも用いており、これらの兵法書もかなり読み込んでいたものと思われます。

 

 国雖大好戦必亡 天下雖安忘戦必危

 

  国大なりと雖(*いえど)も

       戦(*いくさ)を好めば必ず亡び

  天下安しと雖(*いえど)も

       戦(*いくさ)を忘るれば必ず危うし

 

(弊共著「山本五十六 戦後70年の真実」NHK出版新書108~109頁より)

「司馬法(*しばほう)」という兵法書は「軍礼司馬法」「古司馬法」「司馬穰苴(*じょうしょ)の兵法」などの別名があり、「司馬」とはそもそも軍政を司る官職名であって、周王朝では「大司馬」という官職があったとされます。軍政や軍令など戦争に関する様々な規定・心得などが記録として集積され、それらは後の戦国時代に「斉(*せい)」の国で纏められました。「斉」の国の始祖は有名な「太公望(*たいこうぼう):呂尚(*りょしょう)」です。

 ご参考:「大東亜戦争と日本(71)明治以降の学校教育が失った政治・軍事の哲学」

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12678219421.html

 明治以降の新しい学制に基づいた諸学校では、こうした漢籍の修学は一部のみであって、近代科学技術や近代法制に習熟するための基礎的な数学、物理学、化学、西洋語学(英語或いはドイツ語、フランス語など)の西洋学科目に重点を移していましたから、山本提督や米内光政提督のように一部の自学自習を長年積み重ねた人々でなければ、戦前の日本人といえども、明治から大正、昭和になるにつれて、こうした漢籍の素養は次第に失われてきていたのです。それが、本シリーズ(36)回でも取り上げた通り、京都帝國大学出身の哲学者高山岩男博士が指摘されていたように、日本を無謀な大東亜戦争へと駆り立てた一つの要因であるようにも思います。

 まして現代の日本では、その残滓であった「漢文」の教科さえも、高等学校での教育において、残念ながら益々軽減されてゆく傾向にあります。漢詩などのより文学的側面のみならず、中国五千年の歴史のなかで、特に春秋戦国時代や三国志などの知略攻防を巡る各国の外交や戦争、そして政治のあり方から学ぶべき点は、むしろ現代の日本にこそ数多くあると思われます。中国といえば、現在の共産党が支配する中華人民共和国をイメージしがちですが、むしろ台湾(中華民国)や旧香港に受け継がれた中国古典には、西洋の歴史とはまた異なる、東洋の奥深い叡智が含み込まれているのです。

 幕末維新期の志士たちは、こうした武士道と漢籍の素養の上に、尊王攘夷から尊王開国へと進んでいったのです。新渡戸稲造博士も前掲の『武士道**』(明治32 (1899) 年刊行)のなかで、次のように述べています。(*裕鴻註記)

・・・王政復古の嵐と維新回天の渦のなかで、日本という船の舵をとった偉大な政治家たちは、武士道以外の道徳的教訓をまったく知らない人々だった。(*中略) 順境においても逆境においても日本人を駆りたてたものは、純粋にして単純な武士道であった。近代日本を打ち立てた人々――伊藤(*博文)、大隈(*重信)、板垣(*退助)のように存命している人(*明治32年時点)の回顧談は言うまでもなく、佐久間(*象山)、西郷(*隆盛)、大久保(*利通)、木戸(*孝允)など――の伝記までひもといてみると、彼らの思想や行動は、武士道の刺激の下にあることがわかるだろう。ヘンリー・ノーマン(*当時の英ジャーナリスト、1858-1939)は、極東を研究観察した後、日本が東洋のほかの専制国家(*清国や李氏朝鮮など)と異なる唯一の点について「人類がこれまで案出したもののなかで、最も徹底的で、最も高尚で、最も厳密な名誉に関する規範が、国民に支配的な影響力を持っている」ことだと断言した。その際、彼は新生(*明治)日本を興し、将来のあるべき方向へと進めている原動力に触れたのである。

 日本の変革(*幕末維新以降)は、全世界に広く知られる事実である。このような大事業には、おのずとさまざまな動機が入りこんだが、その主要な力は何かと問われれば、ためらうことなく武士道が挙げられるだろう。日本が日本全土を外国との通商に開放したとき、西洋の政治(*法制度)や科学を学び始めたとき、指導的役割を果たした動機は物質資源の開発や富の増加(*即ち欲望)ではなく、ましてや西洋の習慣を盲目的に模倣したのでもなかった。

 東洋の制度や人民を精察したある著者(*メレディス・タウンゼント、当時の英ジャーナリスト、1831-1911)は次のように記している。

 「私たちは日々、ヨーロッパがいかに日本に影響を及ぼしたか、を教えられている。しかし日本の島々のなかでの変化はまったく自発的なものであったことを忘れている。ヨーロッパ人が日本に教えたのではなく、日本みずからがヨーロッパの文事・武備の制度や方法を学んだのだ。そしてそれが今までのところ立派に成功してきたことが実証されている。トルコ人が何年も前にヨーロッパの砲術を輸入したように、日本はヨーロッパの機械工学を輸入した。これは正確にいえば影響というべきものではない、例をあげるとすれば、イギリスが中国から茶を買い入れることで、中国からなんらかの影響を受けたとはいえないのと同じである」。(*中略) 

   タウンゼントは、日本に変化をもたらした原動力が完全に日本人自身の内にあったことを看破した。彼が日本人の心情をさらに精査していたら、その鋭い洞察力により、原動力が武士道にほかならないことが容易に納得されただろう。劣等国(*当時の表現)と見下されることを耐えられない名誉感覚――、これが最大の動機であった。殖産興業という考えは変革の過程において、後から目覚めたものである。

   武士道の影響は現在(*明治32年時点)でも明らかであり、一暼しただけで見て取れる。日本人の生活を見れば、一目瞭然である。(*中略) 国民に広く浸透している礼儀正しさは武士道の遺産であるが、これは改めて取りあげるまでもなく、よく知られていることである。「小柄なジャップ」が持っていた肉体的な持久力や忍耐力、勇気は、日清戦争(*1894-95年)であますところなく証明された。「日本人以上に忠君愛国の念を持つ国民が存在するだろうか」と、多くの人々が問い、それに対する誇り高き答えは「否」である。私たちは武士道に感謝しなければならない。・・・(**前掲書272~278頁より一部抜粋)

・・・近年(*明治32年時点)の日清戦争で日本が中国に勝ったのは、村田銃とクルップ砲を用いたからだといわれている。この勝利はまた、近代学校教育の成果ともいわれている。しかし、これらは真実の半分も満たしていない。エルバーやスタンウェイの手による選りすぐりのピアノでも、ピアノを修得した人の手なくして、リストのラプソディやベートーヴェンのソナタを自ら演奏することができるだろうか? あるいは、銃が勝利をもたらすのなら、ルイ・ナポレオン(*第二帝政皇帝、普仏戦争に敗戦、1808-1873)は、なぜミトライユーズ機関銃でプロシア軍を倒せなかったのか? またモーゼル銃で武装したスペイン人は、なぜ旧式レミントン銃でかろうじて武装していたにすぎないフィリピン人を打ち負かすことができなかったのか? 常套句を改めて繰り返すまでもないのだが、息吹を与えるものは精神であり、精神なくしては最良の装備もほとんど利することはない。最新式の銃も大砲も自発的に発射することはない。最も近代的な教育制度も臆病者を英雄に仕立てあげることはできない。できるわけがない! (*日清戦争で、)鴨緑江、朝鮮や満洲において勝利をもたらしたものは、私たちを導き励ましてきた心のなかの父祖の霊であった。これらの霊、勇武の祖先の精神は死に絶えてはいない。見る目を持つ者には、それらがはっきりと見えるのだ。最も進んだ思想をもつ日本人の皮をはいでみれば、そこに侍(*武士)の姿が明らかになるだろう。クラム教授が適切に言い表したように、名誉や勇気をはじめとするすべての武徳の偉大なる遺産は、「われわれが預かっている財産にすぎず、祖先およびわれわれの子孫のものである。それはだれも奪いとることができない人類永遠の家禄」であり、現在における使命はこの遺産を守り、古来の精神をほんのわずかでも損なわないことであり、本来における使命はその範囲を広げ、人生におけるすべての行動や関係に適用していくことである。

 封建日本の道徳体系は城郭や武具と同様に崩壊して塵灰となるが、新しい道徳が不死鳥のように蘇り新生日本を進歩の道へと導いていくとの預言があり、その預言は、この半世紀の出来事(*幕末維新から日清戦争の勝利)によって裏付けられた。このような預言が実現することは望ましくもあり、起こりうることでもあるが、不死鳥は自らの灰のなかからのみ再生すること、不死鳥が渡り鳥(*外来種)でもなければ、ほかの鳥に借りた翼(*外国産)で飛ぶものでもないことを忘れてはならない。(*後略)・・・(**前掲書296~298頁)

 この一方で、新渡戸稲造博士は、同書の別の箇所で「侍の教育と訓練」について、次のようにも述べています。

・・・武士の教育でまず重んじられた点は、人格を確立することであり、思慮、知性、論理性などの複雑な能力は脇に追いやられていた。武士の教育において、美的な芸能が重要な地位を占めていたことは前述の通りである。それは教養人にとっては不可欠なものであるが、侍の訓練にあっては本質的なものというよりむしろ付帯的なものであった。もちろん学問に秀でることは尊ばれたが、知性を意味する「智」という漢字は、まず賢明さを意味し、知識は従属的な地位に留め置かれた。武士道の枠組みを支えているものは智、仁、勇であるとされ、それぞれ、知恵、博愛心、勇気を意味している。侍とは本質的に行動の徒である。学問は侍の行動の範囲外にあった。侍は自らの武士という職業に関連する限りにおいて学問を活用した。宗教と神学は僧侶(*と神官)に任されていた。そして侍は、宗教と神学が勇気を養う助けになる場合においてのみ、それらに関心を持った。(*中略) 哲学と文学は侍の知的訓練の主要な部分を形成していたが、これらを学び求めるときでさえ、侍が追い求めるものは客観的真実ではなかった。つまり、文学は気晴らしとして、哲学は、軍事的もしくは政治的問題の究明のため、もしくは人格の形成における実践的な補助として学ばれたのである。・・・(**前掲書158~160頁)

 ここには前回に見た大和魂・和魂の、現実的・実際的・実務的・実用的な観点で、外来の知識や技芸を日本の国情に応用して活用する精神が、その主軸を成していたことと、連関する説明であることがわかります。そして更に新渡戸博士は、次のようにも述べています。

・・・その一方で、私たちの欠点と短所もまた、武士道に大いに責任があると認めるのが公平というものだろう。日本人が深遠な哲学に乏しい――科学研究においては、若い日本人ですでに国際的名声を得た者もいるが、哲学の分野ではいまだ何らかのものを達成した者は一人としていない (*明治32年時点)――要因は、武士道の教育計画において形而上学の訓練が軽視されていたことに求められる。日本人が異常に感じやすく、激しやすいのは私たちの名誉の感覚に責任があり、外国人がしばしば非難するように、日本人が自負尊大であるとすれば、これもまた名誉の病的な所産である。・・・(**前掲書278頁)

 ちなみに、この末尾の「激しやすい」という部分は、明治から戦前の日本には強く見られますが、戦後はむしろ韓国などの方が、こうした感じが強いかもしれません。また後年、西田幾多郎先生などの哲学者が出る前の話*です。

   ともあれ、武士道が、西洋の哲学やキリスト教神学とそれらの思想体系のように、必ずしも論理的に体系的かつ一貫して整備された哲学的内容を持っているものではなく、その修学と修練の主要な目的が、武士としての人格の陶冶と完成を目指したものであり、あくまでもそのために必要な武芸や教養としての漢籍を学んでいたということでもあります。むしろ武士道は、禅宗の教えにも似て、整然とした論理的体系性というよりは、直観的な真理の体得とその実践躬行に、重きを置いていたと言えるかもしれません。新渡戸博士は次のような記述もしています。

・・・武士道がいかに非好戦的で非抵抗的な柔和の極致に到達しえたかについては、武士道を信奉した人々の言葉から理解できる。たとえば、小河立所(*江戸時代の儒学者、1649-1696)は「人の誣(*し)ふるに逆わず、己が信ならざるを思え」と言い、熊沢蕃山(*江戸時代の陽明学者、1619-1691)は「人は咎むとも咎めじ、人は怒るとも怒らじ、怒りと欲を棄ててこそ常に心は楽しめ」と述べている。さらに、その張り出した額には「恥も座するを恥ずる」とまでいわれた西郷南洲(*隆盛、1828-1877)の次の言葉を挙げておきたい。

   すなわち「道は天地自然の物にして、人はこれを行ふものなれば、天を敬するを目的とする。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽して人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」というものである。・・・(**前掲書132~134頁)

 この西郷南洲の「敬天愛人」の境地は、西洋流の論理的な哲学体系ではなくとも、精神的な人格修養による一種の悟りであり、しかもそれを体得・体現した生き方をすることが武士道の士魂であると考えられます。それは、江戸幕府が「寛政異学の禁」(1790年)により、正学と定めた朱子学の「知先行後」よりも、異学として禁じられた陽明学の「知行合一」の考え方の方が、「行動の徒」であった武士にとっては近しいものであったといえます。「知先行後」は「知ることが先、行うことは後」という慎重な姿勢であり、「知行合一」は実行・体験と知の一致を重んじる実践する姿勢たることから、そもそも前回に見た大和魂・和魂の本義からしても、日本の武士には好まれるものでした。

 しかし、朱子学の「名分思想」の方が、徳川幕藩体制の秩序維持の観点からは相応しいと考えられ、正学とされたのです。なぜなら「君、君たらずとも、臣は臣たり」とする守旧的な立場と考えられていた朱子学に対し、「君、君たらざれば、臣は臣たらず」という、叛乱や革命を是認する立場が陽明学であると解されたためです。実際の思想は、ここまで単純なものではないのですが、得てしてこのような過度な単純化や過度な一般化が、誤解や少なくとも不正確・不十分なる表層的理解により横行し、それが意外な歴史の転轍機となる場合があるのです。

   元々孔子は「正名(名を正す)」即ち「人々の地位身分の名(名称)と分(本分)との一致すべきこと」を要請していたのであり、「君臣父子の四者それぞれにその地位身分に応ずる義務を持ち、地位身分にふさわしい徳を備えねばならならぬ、かくてこそ秩序は、圧制も反抗もなく維持され、社会は平安なるを得るのであって、この名分の一致は、治国の最低の必要条件であり、いかなる理想的政策も、この条件を欠いては実行の足場を見出し得ない」という主張でした。これが「名分思想」の本来の意味です。つまり君は君らしくせよ、臣は臣らしくせよ、それぞれの名に相応しい分を守るための義務を果たし、その名に相応しい徳を備えなければならない、という君・臣ともに対する厳しい要請をしていたのです。しかし、もし不幸にして君、君たらざる場合でも、やむをえずして、臣は臣たることを要求するのです。孔子は叛乱や革命を是認しないからです。これが朱子学の立場です。これに対し「君、君足らざれば臣は臣たらず」という思想を是認したのは孟子の立場でした。これが陽明学の、経験や実行を重んずる実用の学たる「知行合一」のスタンスに連なって理解されたために、現行の封建的秩序の維持に反する異学とされたのです。

 さて、武士たちの学問的な素養を支えた四書五経をはじめとする漢籍・漢学の世界は、この意味でも決して矮小化して捉えるべきではない、広く深い世界であるのですが、さはさりながら、何年もかけて一般人がこれを研究することもまた困難です。そうした場合は、やはりその道の専門家に頼り、その方が窮めた世界に、案内してくれる書を紐解くことで助けられるのです。

 中国哲学者であった竹内照夫博士(東京帝国大学出身の北海道大学教授・名誉教授、関西大学教授、1910-1982)のご著書に「四書五経*** 中国思想の形成と展開」(平凡社東洋文庫44、1965年初版刊)があります。この本は少なくとも私の所蔵する1994年の第2版第13刷まで約三十年は版を重ねていることから見ても、間違いなくこの分野における好著であり良書であることがわかります。読者の皆さんもぜひこの本をご一読戴き、日本の武士たちを育てた四書五経の概要だけでも知って戴きたいと存じます。以下に同書***の目次をご紹介します。

第一章 神話と歴史――『書経』

第二章 予言の論理――『易経』

第三章 礼、その形と心――『礼記』

第四章 「風雅」の起り――『詩経』

第五章 春秋の筆法――『春秋』

第六章 「君子」について―

                   ―『論語』『孟子』

第七章 学問と政治・倫理―

                   ―『大学』『中庸』

第八章 四書五経の伝承

第九章 日本の四書五経

結び――四書五経と現代

付録〔四書五経に関する参考書〕

 ここからは主に、この第九章を参考にしつつ、日本における四書五経の経緯と流れの一部を紹介したいと存じます。まず概略的には、日本には応神天皇の世(4世紀)にまず百済の人が論語と千字文を伝え、継体天皇の世(6世紀)に百済から五経博士が入朝し、飛鳥時代(6~7世紀)には讖緯説が伝来して陰陽道と称せられます。つまりこの頃には、漢・三国・六朝時代の中国の学問・思想がかなり詳しく伝わって来て、経書・経学の教養もわが国の知識人層には行き渡り、それが645年の大化の改新にも影響を及ぼしました。その天智天皇の敷かれた路線により、その後文武天皇の世の701年 (8世紀)、大宝律令(学令)による「大学(*寮)」に「明経」(みょうきょう)という儒学の五経(『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』)を教育する学科が設けられます。その指導教授たる「明経博士」と学生たる「明経生」の定員が設けられ、要は儒学・五経を修学し、官吏として朝廷で事務を担う官僚養成機関として、この大学寮は機能します。そして10~11世紀頃には全盛期を迎えましたが、その後藤原氏を頂点とする氏族制度が実権を延伸するにつれて、氏族が運営・所属する大学別曹が認可され、そこから官僚に任官する道が開かれたことなどによって、次第に大学寮は形骸化してゆき、火災が契機で12世紀には閉鎖されました。

 一方で中国も唐代から宋代に替わり、平安末期に宋と往来する禅僧によって、それまでの古注による経書(五経)に代わり、新注による四書・経書が伝来し、宋学・朱子学が入ってきます。特に後醍醐天皇やその侍臣は、熱心に新注の四書五経を購読し、建武の中興とその後の南朝にて愛好されました。これは上述の朱子学の「名分思想」の君臣関係を、天皇親政を支えるものと捉えていたと考えられます。この思想は、後の幕末になって水戸藩の水戸学や国学の尊王論に繋がって行きます。

 一方で、禅宗・臨済宗の京都五山(別格の南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、方寿寺)にて、この新注の四書五経は禅僧たちによって兼修授受されて江戸時代に至ります。ところが、冷泉家出身の藤原惺窩(1561-1619)がこの京都五山で修学し、禅僧となって相国寺の首座にまで昇った後、三十歳の頃に心機一転して還俗し、儒者(専門儒家)となりました。惺窩は朱子学の研究を主体としつつも、陸象山の心即理説、王陽明の致良知説にも通じ、古注経学や仏教(禅宗)にも詳しく、広く包摂的に儒教を理解して経世治国の道にも自得するところがあり、徳川家康の知遇を得て仕官を求められますが、自らの代わりに門人の林羅山を推薦しました。

 林羅山(1583-1657)は、京都建仁寺で儒学・仏教の二道を修め、二十歳で惺窩に師事して朱子学を研究していました。そして上記の通り二十五歳で家康に仕えて文教の主任者となり、以来四代将軍家綱の世まで半世紀も同職にあって、幕府において「大学頭」(だいがくのかみ)の職を林家の子孫が世襲し、孔子廟(のちの湯島聖堂)を主管し、昌平坂学問所(当時の大学)で武家子弟の儒学教育に当たりました。

 こうして官学たる朱子学(新注の四書五経)を主流とする儒学が、江戸時代には隆盛を見ますが、民間でも朱子学以外の陽明学や古注の経書の研究をする人々が出てきて、古学派(伊藤仁斎が祖の古義学や、山鹿素行が祖の聖学)とか古文辞派(荻生徂徠が祖)と呼ばれ、むしろ朱子学はやや不振となります。江戸時代中期には、こうした各派による四書五経の購読が盛んになっていました。幕府は上述した通り、幕藩体制の秩序維持の観点から朱子学を擁護しており、寛政二(1790)年に、朱子学を正学とし、陽明学・古学ほかを異学として抑圧する「寛政異学の禁」を令します。当時の幕府執政は松平定信(実学を重んじた八代将軍吉宗公の孫)でしたが、徳川幕藩体制の維持を最上とするがためにこうした文教政策をとり、併せて出版物の取締り法を定めたのです。このため、ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の必要性を説く『海国兵談』(寛政三(1791)年刊)を著した林子平は、幕府の鎖国政策や軍事政策に口出しするものとして処罰を受け、蟄居を命じられて失意のうちに亡くなりました。

   この幕府の思想禁圧の姿勢は幕末に近づくにつれて激化し、天保十(1839)年の「蛮社の獄」では、日本の漂流漁民を送り届けに来た米国商船モリソン号事件(1837年)の際の、異国船打払令(1825年発令)よる砲撃をきっかけにして、蘭学や開国政策に心を寄せていた渡邊崋山、高野長英、鈴木春山などが嫌疑や処罰を受け、崋山は自刃、長英は脱獄の後に捕縛時に自決したとされています。鳥居忠耀という上記大学頭林家出身(三男)の幕臣が蘭学を嫌い、かつ鎖国政策と幕藩体制維持のために行った、見せしめ的冤罪事件という側面があるようです。以前下記の本ブログ記事でも取り上げた大橋訥庵(儒学者・過激な尊王攘夷論者、1816-1862)の『政権恢復秘策』(1861年)の著述や、同じく『闢邪小言』(1857年刊、邪悪思想追放論)がありますが、後者には次の一文があったといいます。

 「西洋人は正しい窮理を知らず、邪知に長じ不正の器具を作る。西洋人は仁義忠孝を知らず、その生活は禽獣に類する。ことごとく打ち払って寄せつけてはならない」という趣旨を説き立てていました。

 ご参考:「大東亜戦争と日本(50)排英思想の淵源と尊皇攘夷」

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12669345319.html

 こうした過激な攘夷論が支持を集める一方で、大和魂の実用主義的見識から、佐久間象山や横井小楠は、「東洋の道徳を守り、西洋の技術を使う」ことを標榜していました。これはのちの「和魂洋才」に連なる考え方であり、同時に東洋の大国たる清国では、アヘン戦争(1840-42年)の対英敗戦や、太平天国の乱(1851-64年)ののち、曽国藩・李鴻章らによる「洋務運動」が展開されます。これは、「中体西用:中学を体となし、西学を用となす」即ち「西洋の科学や技術を大いに取り入れて富国強兵を計るべし」という西洋化に務める運動でした。しかし訥庵らは、象山や小楠らのこの程度の洋学採用論者をも敵視し、結局この二人は尊王攘夷派により暗殺されてしまいました。

 しかし武士道の、というよりはさらにその基底をなしている和魂の実用主義精神が、こうした過剰な攘夷感情や理論・理屈を超えて、西洋の科学技術や蒸気機関を備えた軍艦(黒船)など兵器体系の軍事的優位性という、厳しい現実を見据えて、結局は尊王攘夷から尊王開国に舵を切ります。心情的には開国攘夷とでも言うような心情を抱いたままの人々も、そこには内包されており、それが後年、アジア主義から大アジア主義へ、さらには日本を東洋の盟主とする東亜新秩序や、それを東南アジア領域にも拡大した大東亜共栄圏という「アジア人によるアジアの統治」という方向性に、いずれ繋がってゆく萌芽を残していたとも捉えることができます。ことの是非や、そもそもその時代の西洋列強の植民地主義、そして白人の人種的優位論や、黄色人種への警戒と侮蔑を伴う黄禍論、さらには黒人も含めた有色人種に対する根強い人種差別と偏見などが、この幕末の19世紀に渦巻いていた歴史的事実を、まずは冷静かつ客観的に受け止めた上で、その時、どのような方向に日本は進むべきであったのか、をあらためて現代の価値観や眼で捉え直す必要があります。それもまた士魂が指し示す現実主義からの、時代を越えた要請であるのです。