前回見た田中隆吉陸軍少将の著書のうち、私が今目の前に広げているのは、昭和23(1948)年10月5日新風社発行の古色蒼然たる「裁かれる歴史** 敗戦秘話」という書の初版本(定價金百圓)です。藁半紙に近いような紙質のいかにもまだ終戦直後の雰囲気を漂わせている古書ですが、いわゆる「東京裁判(極東国際軍事裁判)」の判決言渡しが終わったのが昭和23(1948)年11月12日ですから、ちょうどその頃発刊された本です。田中少将が「陸軍の反逆児・怪物」として国際検事局側に立った証言はすでに完了しており、彼の三部作*の最後の一冊です。(*一冊目は昭和21(1946)年1月山水社刊「敗因を衝く―軍閥専横の実相―」、二冊目は昭和22(1947)年10月静和堂書店刊「日本軍閥暗闘史」)

 戦後の日本が抱えてきたのは、あの先の大戦、「大東亜戦争」をどのように捉えたらよいのかという日本国としての自己認識の問題であり、それが近隣国たる中国・韓国・北朝鮮や、米国ほか欧米諸国との間での「歴史認識問題」となって、戦後75年を過ぎた現代日本においてもなお横たわっているのです。

 これは、近隣の中国や韓国などのいわゆる「反日思想」と「歴史戦」を戦う外交戦の一つである「歴史認識問題」としての側面と、アメリカ・イギリス・オランダ・中華民国(台湾)・オーストラリア・ニュージーランドほか対戦相手であった連合国との「歴史修正主義問題」としての側面、そしてもちろん日本自身の「自己認識としての国史確定問題」という三つの側面を持っています。

 「反日との歴史戦」と捉えた場合は、もちろん負けるわけにはいかない問題ですから、歴史的事実を歪曲して過剰に脚色したり誇張したりして攻撃してくる「歴史戦」においては、正確な事実を提示するとともに、異なる視角や史観に立って反論すべきは反論しなければなりません。しかし一方で、先の大戦たる「大東亜戦争」自体を「全肯定」して「アジア植民地解放のための正義の戦争であった」と主張することは、論理的には当然、主な対戦相手国であったアメリカをはじめとする連合国との間に、「歴史修正主義」だとする批判を巻き起こすことになります。

 そもそも現在でも国際連合憲章に「旧敵国条項」が存在していることを見ても「国際連合」自体が第二次世界大戦の戦勝国たる連合国によって設立された歴史的経緯からして、現在までの戦後日本が75年以上歩んで来た国際社会の優良なる一員としての立場をも、ある意味で毀損することになりかねません。また現実的な外交・安全保障問題としても、日米同盟を考えれば、同盟国たる米国に対し、果たして本当に「大東亜戦争全面的肯定論」を主張するのかという、現代日本の国策としての基本的姿勢にも関わる外交問題となります。

 もちろんどのような主張でも、主張することは可能でしょうが、アメリカやイギリス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドそして中華民国(台湾)などの、当時の国際法上の敵国にして実際に自国民が「血を流した」対戦相手の各国が、彼らの「歴史認識」を改め、「大東亜戦争は日本が正しかった、我々連合国が間違っていた」と認めるはずはありません。「勝てば官軍」ではありませんが、当然「大日本帝國」には相応の言い分があったとしても、その戦争に敗れた以上は「負け犬の遠吠え」と言われても仕方がない、国際社会における厳しい現実的側面を持っているのです。あの戦争に勝利するか、それともそもそも戦争をしなければよかったということになるのです。「悪いのは全て相手だ。僕はちっとも悪くない。」と言い張っても子供の喧嘩ではないのですから、地球上の国際社会全体が今さら納得するとは到底思えません。

 但し一方で、あれは「悪の帝国」による真っ黒な「侵略戦争」だと言われるのであれば、そうではなく、様々な経緯・脈絡があって当時の日本としては「已むを得ず戦った戦争だった」という要素も少なからずあると主張することは可能です。すなわち「真っ黒」論に対し、「真っ白」論とは言えなくとも、少なくとも「白黒混交」論であることを説明し、主張することはある程度できると思います。つまり「是は是、非は非」としてどの要素、どの部分は「是・白」であり、どの要素・部分は「非・黒」であったかという、日本の国史としての自己認識が肝心となるのです。

 前置きが長くなりましたが、こうした意味において、「東京裁判」史観というものを、改めて検分し、現代日本の国史としてどのように受け止めるかという問題があるということなのです。「東京裁判史観」を全否定することも全肯定することも、共に上記の「大東亜戦争」の全肯定論か全否定論かに連なっているのです。そしておそらくは「極論的」な「全肯定または全否定」の両極端しかないとする立場ではなく、歴史の実相としては「部分肯定・部分否定」として捉える観点が、より正確なものではないかと思われます。なぜなら「全肯定論」も「全否定論」も、実は似ていて、「自己の主張以外は一切認めない」という意味において、それ以外の立場の「思想・言論の自由」を認めない論理であるからです。実社会や現実の世の中をある程度生き抜いてこられた方ならば、それこそこうした「極論」が得てして「机上の空論」であることは実感されていると思います。「歴史的事実の積み重ね」を取り扱うにあたり、わたくしたちは、やはり現実を「あるがまま(As it was)」に捉える「リアリズム」に基づいて、「~は~であるべき」という理想論とは一線を画した、事実・現実を正確に捉える歴史的描像を追究するスタンスとしての「リアリスト」でなければならないのです。

 「東京裁判史観」を全て、国際検事局側の一証人であった田中隆吉陸軍少将の証言が形成したとは言えないし、基本的に戦勝国による「政治的報復裁判」であるという性格から生み出された「平和に対する罪」という事後法の成果物だとする見方は成り立つと思いますが、これとは切り離して、田中隆吉少将が指摘し糾弾した「大東亜戦争に至る要因や要素」を冷静に検分してみることは、「東京裁判史観」から脱却するためにも、むしろ必要なことだと思われます。その上で、歴史的事実に照らし、かつての「東京裁判の法廷」ではなく、現代日本のわたくしたち国民自身の「心の法廷」で、「大東亜戦争」をどう捉えるかをひとつひとつ確認し、国史としてどう位置付けるかを確定して行かねばならないのです。それは現代の問題というよりも、わたくしたちの子孫である将来の日本国民のため、日本の未来のために必要な歴史的作業なのです。

 さて、前掲書**「裁かれる歴史」には「日華事変解決の機会」という章があります。そこから少し抜粋して読んでみましょう。(*裕鴻註記、表記補正)

・・・太平洋戦争は、春秋の筆法を以てすれば日華事変が生んだ悲劇である。昭和16(*1941)年12月8日以前に若し日華事変が解決して居たならば断じて太平洋戦争は勃発しなかったであろうし、亦我等は祖国日本今日の亡状に際会しなかったであろう。日華事変解決のチャンスは屡々あった、その最初のチャンスは事変が起った昭和12(*1937)年12月に在華獨逸公使トラウトマン氏が仲介に立って日華間の和平に乗り出したときである。当時の参謀次長は多田駿中将であった。氏は石原莞爾少将の意見に従ひ撤兵を條件として早急なる事変の解決を企てた。従ってトラウトマン氏の斡旋のことを聞くや、渡りに船とその意向を内閣に伝達した。時の内閣は第一次の近衛内閣であった。この参謀本部の意向は、近衛内閣に対しては意外なるものであった。連戦連勝既に敵の首都南京を陥れ、余勢将に漢口をも呑まんとする概あるとき無条件撤兵とは何事ぞやと憤慨したのはファッショの大本山末次(*信正予備役海軍大将、艦隊派)内相(*当時内務大臣)であった。この末次氏の強硬論に賛成したのは同じ陸軍畑の杉山(*元)陸相であった。廣田(*弘毅)外相、賀屋(*興宣)蔵相、木戸(*幸一)文相等もこの末次氏の強硬論の片棒を担いだ。近衛(*文麿首相)氏は閣内の議論さへ纏まれば硬軟何れにも可なりとの無定見の態度であった。参謀本部のこの無条件撤兵案は閣議に於て完全に覆された。トラウトマンを経て国民政府(*蔣介石)に交付せらるべき解決案は後に到るまで和平解決の癌と成った。華北、華中に於ける永久駐兵及び賠償の要求である。華北の駐兵は杉山氏(*陸相)、華中の駐兵は末次氏(*内相)、賠償は賀屋氏(*蔵相)に依って提案せられたものである。この解決案はトラウトマン氏に拠って国民政府に伝へられたが、国民政府は言下に一蹴した。昭和13(*1938)年1月の中旬である。その結果があの愚劣極まる点に於て世界に定評のある「蔣介石を相手とせず」との近衛声明となった。

 この声明は国民政府には何等の反響をも与えなかったのみならず、反って国民政府の態度を硬化した。茲(*ここ)に於て始めて事態の重大さに驚いた近衛氏は内閣を改造して杉山(*陸相)、末次(*内相)、廣田(*外相)、賀屋(*蔵相)氏等を追ひ出し、板垣(*征四郎)氏を陸相に、宇垣(*一成)氏を外相に、池田成彬氏を蔵相に迎へて急速なる(*日華)事変の解決を図らんとした。

 宇垣氏は外相に懇望せられたとき「乃公(*自分)に井伊直弼になれと言ふのか。それもよかろう」と答へて就任した。就任と殆んど同時に宇垣氏は英国大使クレーギー氏及び米国大使グルー氏と会見し日華間の交渉には一切の干渉を行はずとの言質を得、国民政府の行政院長孔祥熙氏と交渉し、会見の日時と場所を決定し、将に談判の実行に移らんとするとき、近衛氏から「陸軍に不穏の空気があるからその交渉は中止して呉れ」と依頼せられ、宇垣氏は憤然として交渉を打ち切り、外相の椅子を蹴って近衛氏と別れた。

 近衛氏の云ふ陸軍の不穏の空気とは大したものでなかった。伊藤左又と稱する気狂ひ染みた一少佐が、二三の青年将校を伴って近衛氏を訪問し「宇垣が英米を仲介として日華事変を解決せんとして居るのは怪しからぬ」と脅した丈である。先年の二・二六事件の惨劇に戦(*おのの)いた近衛氏はまさしくアツモノに懲りてナマスを吹いた。そして宇垣氏に交渉の中止を請ふに到った。宇垣氏は辞職に際し近衛氏に「国家を担う重責にあるものは苟(*いやしく)も国家のため是と信ずれば死を堵しても邁進せねばならぬ」と衷心から忠告した。近衛氏は之に対し「貴方が辞めるなら私も辞める」と答へた。然し氏は板垣氏の意見に従って辞職を思ひ止まった。近衛氏は国家よりも自己の生命乃至地位を尚しとしたと言はねばならぬ。かくしてわが日本は二度目の事変解決のための絶好のチャンスを失った。

 国民政府は、徹底して親英米である。従って英米の意向を無視して、日華間の和平交渉が成立する公算は絶無と言ってよい。宇垣氏が、日華間の交渉開始に先立ち英米両国の諒解を求めたことは最も賢明なる外交手段であった。然るに事変勃発以来、声を大にして英米の敵性を宣伝して来た陸軍はこの方法には快(*こころよか)らず寧ろ反対であった。陸軍は宇垣氏の選んだこの捷路(*早道)を捨てて事変解決のために最も困難な迂路(*迂遠な道)を選んだ。その一つは汪偽政権(*汪精衛政権)の樹立に依る、国民政府の切り崩しであり、他の一つは(*日独伊)三国同盟の締結に依り獨逸を仲介として日華間の和平を招来せんとするものであった。・・・(**前掲書54~57頁)

 ここにある通り、昭和15(*1940)年9月の三国同盟締結直後、当時の松岡洋右外相はナチスドイツのリッベントロップ外相を介しての国民政府との和平斡旋を依頼し、中国からの撤兵を条件にこれに応ずるという回答を得ましたが、今度は汪精衛政権の成立直前にまで漕ぎ着けていた元首相の阿部信行特派大使が反対し、それを受けて当時の東條英機陸軍大臣が撤兵に反対、松岡外相の依頼による大川周明氏の説得に対しても「それでは靖国神社の英霊に済まぬ」という理屈で退けました。さしもの大川周明氏も「靖国神社の英霊は既に神である。神は貴公(*東條陸相)よりはるかに見通しが利く」という捨て台詞を残して、以後袂を別ったといいます。東京裁判の法廷で大川氏が前席に座る東條氏の頭を三度激しく殴ったのも偶然ではないと田中隆吉少将は書き残しています。

 こうした大東亜戦争へと向かう日本の国内情勢に大きな影響を与えていた要因の一つに、「排英運動」があります。それは日華事変が泥沼化して解決しないのは、重慶に退いた蔣介石政権を英米がビルマや仏印(*ベトナム)からの「援蒋ルート」で軍需物資を補給して助けているからだという理由や、元々アジアを侵略して植民地や租界にして喰いものにしているのは英米をはじめとする西洋列強であるとする「アジア主義」的な反発がその根底には存在するのです。

 上記に登場する伊藤左又(*さまた)陸軍少佐(*陸士37期)は、実は「後方勤務要員養成所(陸軍中野学校)」の教官だった人物です。一期生だった日下部一郎陸軍少佐が書いた「決定版 陸軍中野学校実録***」(2015年ベストブック社刊)から、次の記述を見てみましょう。

・・・第三にあげられるのは伊藤左又少佐である。学生にもっとも強い感化力を持ったという意味からは、この人を第一にあげるべきかもしれない。全身、これ火の玉の熱血漢であった。山口県(*長州)出身で、吉田松陰を崇拝し、自らも松蔭に習おうとしていた。信念の人ともいえよう。「雨が降っても、おれが濡れないゾと決心したら、雨はおれを除けて地面におちる」本気か、冗談か、よくそんなことを言った。上官と意見が衝突しても絶対に折れず、感情が激してくると、やにわに腰のピストルを抜き放つ。相手が顔色を変えるのを見すましてから、ゆうゆうとピストルを左手に持ちかえて手入れをはじめる。そんなゼスチャーも結構うまい人ではあったが、その激しい情熱には、一期生たちはいっぺんに惹きつけられてしまった。その思想を一言にしていえば皇道主義であった。彼は、当時、しだいに力を増して特権的存在となりつつあった軍部に対する批判も容赦なく行なった。

 「天皇はすなわち国家であり、国民はひとしく天皇に直結するものである。天皇と一億国民の繁栄をこそ、われわれは祈らなくてはならない。国権をないがしろにしている、軍首脳や特権階級の腐敗分子にたいする批判なくして、国体を維持することは出来ない。この精神に立って、昭和維新は叫ばれねばならない」このような「伊藤イズム」に久村ら十八名の生徒は心酔した。

 伊藤少佐はまた、日本は英・米の影響下から脱しなくてはならぬという強い主張を持っていた。たまたま、当時はドイツ、イタリアの枢軸国と三国同盟(*第一次)の盟約を結ぼうとする陸軍側と、英米と親交を結ぼうとする海軍側とがはげしく対立している時期であり、三国同盟をめぐって、陸、海軍の相剋が表面化していた。それは、中野学校にも余波をおよぼさずにすむはずはなかった。陸軍省や参謀本部、陸軍大学(*校)から派遣されて中野学校に講義に来る教官たちも、講義のかたわら、口をきわめて海軍首脳(*米内海相、山本次官)の態度を非難した。・・・(***前掲書30~32頁)

 こうして元々創設期から日露戦争後まで英国海軍を師匠とした帝国海軍とは異なり、帝国陸軍の師匠がプロシア(*ドイツ)陸軍参謀本部であったことから連なってくる陸軍のドイツ贔屓にもその根源はあるものの、さらにいえば幕末の吉田松陰にまで遡る尊皇攘夷思想がその淵源となっている、反西洋列強の感情や意識が、伏流水のように反英米の思潮として、この時期に現れてきていることにも、注目しなければなりません。日本は日英同盟の力もあって大国ロシア帝国を相手に日露戦争に勝利した記憶を薄れさせ、むしろ幕末の「大攘夷」の考え方、すなわち一旦開国し、文明開化と富国強兵により国力と兵力を充分つけてから「攘夷」を実行するという思想に近いものがあったのではないでしょうか。近年には珍しく大健闘しているNHK大河ドラマ「青天を衝け」にも登場する幕末市井の草莽の志士を指導した儒学者、大橋訥庵(*とつあん)の「政権恢復秘策」(1861年)の一部を、次に口語訳で読んでみたいと思います。その尊皇攘夷の心情が伝わってきます。(早稲田大学名誉教授、鹿野政直編「幕末思想集****」筑摩書房1969年刊より)

・・・嘉永六(1853)年及び安政元(1854)年の両年にわたり、我が国に通商を求め外夷が来航してきたが、それ以後の幕府は何等有効な処置を取っていない。因循姑息のことなかれ主義に固執するばかりで、かえって外夷の驕慢を増長させ、彼の欲するものは何から何まであけすけに要求される始末だ。また幕府有司の外夷恐怖症も日々ひどくなる一方で、外夷が強く要求するものであれば、是非を論ぜず利害を問わず、我が国の将来におかまいなくすべて許してしまうという有様だ。その様な無為無策の方針だから、初め来航したのは外夷アメリカの一国のみであったのが、諸外国の蛮夷が順次おしよせてきて、英・仏以下の五か国と条約を締結するということになった。そして幕府有司はこの五か国以外の国とは決して交易しないなどと高言して全国の批判を防ごうと努めながらも、さらにポルトガルやプロシャが来航し通商を強要してくると終にはそれをも許容し、現在では既に七か国と交易している有様だ。そのような調子だから、恐らく今後とも威力をかさにきて来航してくる夷狄があれば拒絶することができずに、数十か国ともなしくずし的に条約を締結してしまい、それは際限のないことになろう。

 元来、我が神州日本は土地が非常に肥沃であり、物産は極めて豊富である。とはいえ土地からの生産には限度があり、しかも諸外国蛮夷の欲望は限りのないものだから、遂には最も根本的な物の考え方までも支配され、生きながらにして枯木同然となり、日本精神絶え絶えとして消えはて奴隷根性に堕してしまう場合すら現出しようではないか。貿易が開始されてから未だ三年の月日に満たないにもかかわらず、物価の騰貴、列藩の疲弊、下層階級の困窮等、まったく最悪の飢饉の場合と何等かわらない状況が現出していることをみても、それは了解できよう。その上、近日の情勢をみれば、外夷イギリスの要求どおり皇国周辺の精密な沿岸測量を許し、江戸南郊の品川御殿山に堅固な城堡を築造し諸外国蛮夷を居住させようとするなど下にもおかない扱いをしている。このまま放置して数年もしたなら、独立している我が神州日本もまったく耶蘇キリストの邪教に支配され崇拝するようになり、心身ともに戎狄欧米列強国の属国ともなろう。そうなれば幕府は諸外国の支配者連中と婚嫁を通ずるような売国者的立場になることは自明の理である。それ故早く攘夷の策を定め、けがれた外国人の臭気を一掃し尽くさねばならないのだ。

 このような状況にありながら、天朝をはじめとし国内数十の大藩に至るまで、どれ一つとして夷狄征伐の義旗を挙げるものがなく、黙々然としてどうすることもできずに幕府の失策を傍観し皇国の滅亡を待っているような態度は一体どうしたのかといえば、それにはそれなりの子細があるわけだ。はじめ列藩の中にあって、水戸の景山徳川斉昭老君をかしらとして攘夷を建策しようと企てた二、三の藩もあったが、その見識は達せられず、時機を失し処置に誤りもあり、幕府姦吏のためにくつがえされ失敗に帰した顛末(*安政の大獄)は遍く世人の知るところだ。幕府の有司どもは、夷狄と親交するにつれ彼の威力を畏怖するばかりでなく、彼のおべんちゃらに惑わされて今では外夷は頼もしいものと思い、信義ある国と信じ、かえって攘夷を論議する忠士を忌み、もし国内の諸侯のうちで夷狄を攘おうと謀る者があれば、即座に夷狄の援兵をかりてその藩を討とうとさえ欲する勢いだ。このような情勢では、せっかく義旗を挙げようとしても、姦吏のために叛逆者の汚名をきせられ、さらには夷狄の賊兵を皇国に誘い入れ内乱を引き起こすことにもなりかねず、天朝にたいしても恐れ多いことがないとはいえない。以上の事態が、全国の諸侯の中にたとえ忠憤の人がいても容易に義旗を挙げるのを躊躇させ、志をつつみかくして唯々夷狄の跋扈を切歯扼腕しつつも何等の対策もたてられなくさせているのである。(*中略) いうのもおそれおおいことではあるが、今の孝明天皇は英明であらせられ、夷狄の暴挙を憂憤なされ日夜御心を悩まされている、ということが草莽にまで聞き伝えられており、誰も彼も有難いことよと涙を落としている。(*中略) このような人心渇望の時期にあたって、あたかも一声の雷鳴が天に轟きわたるように攘夷の詔勅をお下しになれば、誰一人として感動しないものはなく我も我もと奮い立って、停水が堤をぶち破るかのように国内の人心一時に響応すること絶対に疑いのないことで、この手段こそ今日まず第一の急務でなくしてなんであろうか。・・・(****前掲書225~230頁より抜粋) 

 こうした思潮・心情が大東亜戦争に繋がる排英米思想の淵源だったのです。