前回見た通り二・二六事件以降、「クーデター・暗殺テロの恐怖」が、政府(官僚)、国会(政治家)、海軍、宮廷(重臣)等に蔓延し、皇道派排除のあと陸軍の主導権を掌握した統制派、つまりは永田鉄山亡き後の東條英機系列の中央エリート幕僚群による「合法的陸軍政治支配」の仕組みが確立、進展してゆく結果となりました。

 その中央エリートたちは、陸軍のみならず海軍も、そして政府各省庁を支える高等文官官僚に至るまで、明治時代以降の学校教育によって育成された世代が中心となって、各所属組織を動かす中核・中堅の幹部・幕僚層を形成したために、その前の幕末維新世代に比べて「大局的判断」や「現実的認識」を欠くことになっていったものと思われるのです。もちろん常に「例外的存在」はあるものの、基本的に江戸時代の「四書五経(*儒学)」や「十八史略(*簡易版中国史)」そして兵学では「武経七書(*孫子の兵法ほか)」といった漢籍・儒学の素養をあまり持たない世代です。その代わりに、西洋的な近代科学、西洋哲学、法学・政治・行政制度論、そして近代的軍事技術、工学・物理化学、西洋医学などの実用的学問と近代技術が、その教育の主体となったのです。

 つまり明治時代によく言われた「和魂洋才」のうち、「洋才」に相当する学問・技術の習得には、明治以降の近代的諸学校の教育は適していたとしても、むしろ自明の前提とされた「和魂」の形成は、江戸時代までの漢籍・儒学の分野より、水戸学などをベースとした「国学」たる皇国史観や国体明徴論などの観念論的な日本主義が主軸となってゆきました。それは「中国三千年の歴史」という様々な王朝の変遷・衰亡や、特に戦国時代の厳しい戦争の様相と国家の栄枯盛衰から得た貴重な経験・智識を基とした政治哲学・軍事哲学など、人倫・経綸の智慧と方策が一杯に詰まった、漢籍・儒学の哲学的素養を失ったともいえるのです。つまりは政治・外交・戦争の、価値判断の根拠となるべき「正邪善悪の基準・対処の原則」を失っていった過程と捉えることも可能なのです。

 

 実際に幕末維新をリードした志士たちの世代は、本シリーズ第(56)回で概観した通り、文政・天保・弘化・嘉永・安政・文久・元治・慶應年間(*概ね1820~1860年代)の生まれくらいまでであり、それ以降の世代は、少なくとも幼少時に漢籍・儒学の素養を身につける遑もなく、明治近代学校教育により育つこととなります。もちろん各家庭によって個人的には、漢籍の素養を勉強することはあったとしても、徐々にその全体的な比率は下がるとともに、むしろ外国語学の習得を基礎とする洋学が主体となってゆくのは、明治以降の「文明開化・富国強兵」の過程に於いては当然の流れともいえます。その生まれ育った郷土によって、それぞれの教育に特色はあったにせよ、基本的には、明治5(1872)年の学制発布による近代的小学校教育が始まって以降は、それまでの寺子屋や藩校などでの漢籍を母体とする教育は次第に廃れていったのです。

 ちなみに「四書五経」とは、論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・書経・詩経・礼記・春秋の五経のことをいいます。また「十八史略」はいわば中国の歴史をざっと纏めたものですが、東洋文明の中心であった中国大陸の巨視的な歴史の流れを掴むにはほど良かったのでしょう。そして、武家では兵学(今でいう軍事学)として「武経七書」が研究されていました。「武経七書」とは、孫子、呉子、尉繚子、六韜、三略、司馬法、李衛公問対のことをいいます。

   現代日本でも「孫子の兵法」は有名ですが、例えば山本五十六提督は、元々長岡藩の儒学者の家系に生まれたことも影響したのか、「司馬法」の警句をよく揮毫にも用いており、かなり読み込んでいたものと思われます。「司馬法(*しばほう)」という兵法書は「軍礼司馬法」「古司馬法」「司馬穰苴(*じょうしょ)の兵法」などの別名があり、「司馬」とはそもそも軍政を司る官職名であって、周王朝では「大司馬」という官職があったとされます。軍政や軍令など戦争に関する様々な規定・心得などが記録として集積され、それらは後の戦国時代に「斉(*せい)」の国で纏められました。「斉」の国の始祖は有名な「太公望(*たいこうぼう):呂尚(*りょしょう)」です。

 今回は、こうした漢籍の素養とはどういうものであり、それが一国の政治や軍事、外交にどのような影響をもたらすのかを探る意味で、山本五十六提督が愛読したと思われる「司馬法」を少し覗いてみたいと思います。まずは、弊共著「山本五十六 戦後70年の真実」(NHK出版新書)108~109頁記載の司馬法の言葉です。

 国雖大好戦必亡 天下雖安忘戦必危

  国大なりと雖(*いえど)も

       戦(*いくさ)を好めば必ず亡び

  天下安しと雖(*いえど)も

       戦(*いくさ)を忘るれば必ず危うし

 この言葉は、かつて帝国海軍が旨としていた「不戦海軍論」に通じる思想であり、現代でいえば「抑止力」に相当します。つまり平和を維持するためにこそ、必要な軍備を備え、たゆまずに猛訓練をしている。そうすることで他国が安易に侵略してくることを防ぐ。そして戦うのは侵略を受けた場合のみであって、その場合は鍛え上げた戦力で敢然として戦い、敵軍を痛撃して国を守り抜く。決して他国を侵略・征服するためには海軍を用いない。そして海軍力で自国の領土・領空・領海・経済水域を守り、平和な交易を行うべく海上・航空の交通路の安全と安定を確保し、経済活動によって国富を蓄積する海洋立国をめざす。これこそが、本来の主流であった海軍良識派の考え方であったのです。

 さらに「司馬法」を知るために、守屋洋・守屋淳共著「司馬法 尉繚子 李衛公問対**」(2014年プレジデント社刊)から、以下に少し読んでみましょう。現代日本ではなかなか好適な「武経七書」の本が少ないのですが、同書**は、現代語訳や解説もついて、とても重宝な本ですから、ぜひ皆さんにもご一読をお薦めします。ちなみに守屋洋先生は東京都立大学ご出身、守屋淳先生は早稲田大学ご出身です。では同書**より、まずは「司馬法」の元となった司馬穰苴将軍についての説明をみてみましょう。(*裕鴻註記、漢数字などは適宜修正)

・・・春秋時代(*紀元前771年から紀元前5世紀までの約三百数十年間)も末期のこと、斉は景公の治世であったが、四隣の圧迫を受けて苦しんでいた。折しも晋、燕両軍の侵攻を受けたとき、将軍に抜擢されてみごとに撃退に成功したのが司馬穰苴である。いったい彼はどんな将軍だったのか。それについては、こんな話がある。将軍に任命されたとき、景公にこう願い出たのである。

「わたしは微賤の出で、士卒は心服せず、軍に対する押さえもききません。どうかわが君のお気に入りの方を軍目付(いくさめつけ)として派遣していただきたい」

 景公はなるほどと思い、寵臣の荘買(そうか)という者を付けてやることにした。ところが翌日、この荘買が‘集合の刻限に遅れてやって来たのだという。

 穰苴は軍法官を呼んで、ただした。

「軍法によれば、約束の刻限に遅れた者は、いかなる罪に該当するか」

「ハッ、斬罪に該当します」

 穰苴はただちに荘買を斬罪に処して、全軍に布告した。王の寵臣といえども、軍法の適用を免れないことを示したのである。これで将兵は震えおののき、全軍の綱紀がいっぺんに引き締まったという。

 ただし、軍陣における穰苴は、これとはまた違った一面も見せている。兵卒の宿舎、井戸、かまど、飲食の世話をはじめ、病兵に対する手当てのたぐいまで、みずから率先して事にあたった。また、将軍としての給与をそっくり割いて兵卒の食糧にあて、自分はと言えば、兵卒のなかでも、いちばん虚弱な者と同じ量しか受け取らなかった。

 こうして三日後、軍を点検したところ、病兵までが出陣を願い、穰苴のために勇躍して戦いに赴いた。意気あがる斉軍は、晋、燕両軍を追撃して失地を回復した。この功績によって、穰苴は「大司馬」に任命され、斉の重鎮として重きをなしたといわれる。・・・(**前掲書10~11頁)

 ちなみに、この司馬穰苴将軍の厳正な軍律を課す姿勢が、もし昭和陸軍の将軍たちにもあれば、恐らく「目的のためには手段を選ばない謀略と戦果優先の組織体質」は粛正できたかもしれません。軍紀・軍律とはその将帥の倫理的判断とその実行力にかかっているのです。さてこの司馬穰苴将軍の兵法が基になって、おおよそ二百年後の時代に、書籍としての「司馬法」が成立します。

・・・そのあたりの経緯について、『史記』はこう記している。

「威王は、軍事行動に訴えて諸侯に睨みをきかせるときには、穰苴の兵法に従った。その結果、斉は諸侯に君臨することができたのである。そこで威王は重臣たちに命じて、古くから伝わる司馬の兵法を追論させ、それに穰苴の兵法を付け加えさせて、『司馬穰苴の兵法』と名づけたのである」

 ここで言う『司馬穰苴の兵法』が、すなわち今日に伝わっている『司馬法』にほかならない。その成立は、威王(在位*紀元前356~320年)の代というから、今から二千三百数十年まえ、戦国時代も半ばにさしかかろうとするころである。ただし『司馬法』は、当初百五十五篇あったとされるが、時代とともにほとんど散逸し、今に伝わるのは、仁本、天子之義、定爵、厳位、用衆のわずか五篇にすぎない。・・・(**前掲書11~12頁)

 この「司馬法」の内容には、古代中国の軍の礼法に基づき、敗走する敵は深追いせず、また渡河をして来る敵には彼等が陣列を整えるまでは攻撃を控えるなどの内容がありますが、時代が下るにつれてこうした軍事の古い礼式は守られなくなり、むしろ「宋襄の仁」の逸話に見られるように批判・嘲笑を浴びる対象にもなってしまいます。しかしそれでも尚、「司馬法」の持つ意義は失われておらず、特にその「戦争観」には学ぶべき内容があるといいます。守屋両先生の上記ご著書**から、その内容をみてみましょう。

・・・では、『司馬法』には、学ぶべきことがないのかというと、けっしてそうではない。まず注目したいのは、その戦争観である。

 いったいなんのために戦うのか。ほかでもない、戦いをもって戦いをなくすのが目的なのだという。

『司馬法』のことばを引けば、「戦いを以って戦いを止(*とど)むれば、戦うと雖(*いえど)も可なり」(仁本篇)である。現代風にいえば、抑止力としての軍事は容認されるということになるかもしれない。また、こうも語っている。「国大なりと雖も、戦いを好めば必ず亡ぶ。天下安しと雖も、戦いを忘るれば必ず危し」。戦いはみだりに発動すべきものではないが、さればといって、備えをなおざりにすることは許されないというのである。

 このような前提の上に立って、戦いにどう対処するかを説いているのだが、その要点をあげてみると、次のようになる。

   一、ふだんから礼、仁、信、義、勇、智を人民に教え込み、戦いにさいしても、この六つの徳に則るように指導する。

   一、政治における「礼」と軍事における「礼」を厳しく区別し、軍事のしきたりを政治に持ち込んではならない。

   一、政治でも軍事でも、組織に対する締め付けは厳しすぎてもいけないし、緩やかすぎてもいけない。バランスをとって臨むことである。

   一、戦いを発動するときは、天の時に合致しているか、戦費をどこから調達するか、準備に手抜かりはないか、この三つを慎重に検討してかからなければならない。

   一、軍にあっては、つねに統制を維持し、将兵の心を一つにして敵に臨む必要がある。そのためには賞罰のけじめを厳しくすることも忘れてはならない。

   一、大軍には大軍の利点があり、小部隊にも小部隊なりの利点がある。かりに小部隊を率いて戦う場合でも、その利点をうまく生かして戦うことを心がけたい。

   一、敵軍と対陣したときは、まずさまざまな手段を講じて敵の虚実を探り、その上で、どう対応するか、わが方の作戦を考えなければならない。

   一、追撃するときは伏兵に備え、敵領内に深く進攻するときは、つねに退路を確保しておかなければならない。

・・・(**前掲書14~15頁)

 先制攻勢に出て短期決戦し、早期講和を計るという、太平洋戦争緒戦期における山本長官の政戦略にも通じる教えや、後段の各条を見ても「政治と軍事の峻別」や「寛厳よろしきを得た指揮統制」「開戦時期、戦費調達、戦争準備に手抜かりや誤判断がないかの要検討」「小部隊と大軍との指揮運用方法の違いを踏まえた小部隊の活用」「敵の情況、情報把握を踏まえた作戦立案」「敵伏兵への警戒と備えや、常に退路を確保しておくこと」など、現代の戦いにも通じる様々な戦訓に満ちています。詳しくは、ぜひ上記書**を紐解いてみられるとよいと存じます。まだまだ傾聴すべき教訓の数々が「司馬法」には示されているのですが、ここではもう一つだけ、やはり山本五十六提督にまつわる同書の記述を取り上げたいと思います。同書**の「司馬法【第三】定爵篇」からです。

・・・【十四】「将軍が手本を」

 兵士の守るべき行動の規範はだれでも実行できる平易なものでなければならない。そこで全軍のなかから模範となるべき兵士を選び出し、かれを見習うようにさせればうまくいくだろう。それでも命令が実行されないなら、将軍がみずから率先して手本を示さなければならない。なんとか実行されるようになったら、次は忘れないようにしっかりと覚えさせる。これを何回も繰り返して行動の規範とすれば、無理なく従わせることができる。これが兵士を教育するやり方である。

 ■かつて連合艦隊を率いた山本五十六元帥は、部下をやる気にさせるコツを歌に託して、

   やってみせ、言って聞かせて させてみて

    ほめてやらねば 人は動かじ

  と詠んでいる。ここで『司馬法』が語っていることは、これと一脈通じるものがある。

 (*以下、司馬法原文の読み下し文及び白文)

 およそ人の形(*人の守るべき規範)は、衆に由りてこれを求む。試むるに名行(*名声と行動力を兼ね備えた人)を以ってせば、必ず善くこれを行わん。

 若し行えども行なわざれば、身以ってこれを将(*ひき)う。もし行ないて行なわるれば、因って忘るるなからしめよ。三たびして(*何度も繰り返して)すなわち章を成す。人、これに宜(*ぎ)を生ず。これを法と謂う。

 凡人之形、由衆之求。試以名行、必善行之。

   若行不行、身以将之。若行而行、因使勿忘。

   三乃成章。人生之宜。謂之法。

・・・(**前掲書78~79頁)

 この守屋先生のご指摘の通り、私も山本五十六提督は、相当にこの「司馬法」を読み込んで勉強されていたものと思います。また同篇【十七】「統率の原点」には、守屋先生の次の解説が副えられています。

・・・古来、将たる者は部下の統率に苦心してきた。では、どうすればうまく統率できるのか。兵法書はさまざまな角度からこの問いに答えているが、ここではあらためて軍法の確立が強調されている。ただし、軍法というのは、部下に適用するだけではなく、自分にも適用してこそ、はじめて実効があがるのだという。(*後略)・・・(**前掲書82頁)

 この教えに通じるエピソードを一つご紹介したいと存じます。元連合艦隊参謀の千早正隆海軍中佐(*海兵58期、海大39期:昭和19年3月卒業の海大最後のクラス)の著書「日本海軍の驕り症候群***」(プレジデント社1990年刊)の記述です。

・・・少し余談になるが、『長門』(*当時連合艦隊旗艦)の後甲板で行われたそのような研究会で、その当時(*昭和14(1939)年)に海軍次官であった山本五十六中将(海兵32期、*海大14期)と、私(*千早正隆大尉)としては忘れることのできない出会いをすることになった。その夏の『長門』の後甲板で開かれたある研究会のことであった。同艦の後甲板の研究会の会場は、後甲板の最後部に大天幕を張り、その下に右舷に向かって横向きに最前部に将官および古参艦長用に折りたたみ式のケンバス(*帆布製)の椅子を、その後方に一般士官用に兵員室の食卓用の木製の長い椅子を何段にも並べるのが常であった。その時も、私は最若輩だから左舷の入口から入った最後列の、入口から入ったすぐのところに座っていた。

 研究会も半ばを過ぎた頃、ある士官が私の左にちょこんと座った。誰かと左を振り向くと、その士官が写真でしか知らなかったが、その当時に声望の高かった山本海軍次官であることがすぐ分かった。驚いた私が小声で、

「次官、前へお進み下さい。前の方には折り椅子が用意してあります」と申し上げると、次官も小声で、

「いや、ここでいいのだ。私はオブザーバーだから」と答えて、研究会が終わるまで固い木製の長椅子に座ったままであった。

 私は驚いた。艦隊の教育、訓練も海軍大臣の所管事項だから、次官として前の方に進まれても誰もがへんには思わないだろう。それに(*当時連合艦隊司令)長官の吉田善吾中将も同じ(*海兵の)クラスではないか。それなのに、オブザーバーだからと言って、後方の木製の長椅子に座る(*尻が相当痛くなる)とは、何と公私のけじめをはっきりさせる人だろう。凄い人だと私は思った。

 吉田長官が海軍大臣となり、その後任として山本中将が連合艦隊司令長官として着任し、その将旗を『長門』のマストに掲げたのは、それから間もなくであった。私には艦隊の士気が急に高まったように感じられた。・・・(***上記書30~31頁)

 千早正隆中佐は決して山本長官の崇拝者でもなく、戦後GHQ情報部戦史室調査員として「トラトラトラ」で有名なゴードン・W・プランゲ博士を補佐し、その後自らも数々の戦記・戦史書も執筆した「冷静な史家の眼」を持ち続けた方です。山本長官を含む海軍首脳にも厳しい批判や鋭い分析も行った人物ですが、しかし垣間見た山本提督の人間性というものは上記の記述が十分に示しています。その後しばらくは旗艦長門にあって、しばしば長官の座る作戦室にも参謀たちに誘われて同席し、艦橋をはじめ艦内各所で山本長官を見つめていました。

 私自身も昔、船上で古い木製の長椅子に座ったことがありますが、帆布製の折りたたみ椅子とは座り心地は雲泥の差で、長時間だと本当にお尻が酷く痛くなる長椅子でした。フネのなかでは誤魔化しは一切効きません。ガラス張りで海上生活しているのですから、三ヶ月もすればその人が一体どういう人物であるかは、ほとんどわかってしまうものです。山本提督は単に書物として「司馬法」を愛読していたのではなく、恐らく若い頃から内容に習熟し、それを身につける努力を重ねておられたものと思います。こうした心構えと実践により、戦場で全軍を率いる真の将帥は磨きあげられるのです。幕末維新や日清・日露戦争には、そうした将帥が数多くいたのだと思いますが、果たして昭和時代には、どれだけの軍人がそういう人物に育っていたのでしょうか。こういうところにも、実は大東亜戦争に繋がる深い本質的要因が潜んでいるのではないかと、私は考えているのです。