Netflixで日本映画「エヴェレスト 神々の山嶺」(2016年制作)を観ました。阿部寛さんの最後のシーンは、てっきり蝋人形かと思いましたが、そのあまりにもリアルな姿に、半信半疑で調べてみたところ、どうもご本人がマイナス25℃の冷凍庫に入って自身を凍らせた演技だったことを知り、驚愕するとともにそのプロフェッショナルな役者魂に深く感銘を受けました。
私は中学時代の夏の合宿で、朝の三時から野尻湖に近い学校の山荘を出発し、麓まで歩いてそのまま妙高山(2454m)に登り、山嶺(いただき)から反対側に下山して夕方の六時過ぎに麓の赤倉温泉に到着して入浴する、という登山行事に参加させられたことがありました。昼の休憩も山頂で簡単なお弁当を立って食べるだけで、約15時間「山」を歩き続けたのは、後にも先にもあの時だけです。その後一度だけ自分で同じ妙高山には登りましたが、とにかく山岳や登山にはあまり縁のない人生を過ごしてきました。ですから「山」を語ることなどはとてもできませんし、基本的な登山の知識も経験もない人間です。そんな「山」の素人でも、この映画に出てくる神々しいヒマラヤの「山」の気高い姿には、心が魅かれました。
そこで早速、この映画の原作である夢枕獏さんの小説を取り寄せて読んでみました。(「エヴェレスト 神々の山嶺」2015年角川文庫合本版**)
この小説は、上記の実写映画のほか、谷口ジロー先生による漫画化と、さらにそれをフランスでアニメ化した映画が作られ、日本の映画館でもこの7月8日から日本語吹き替え版で公開されるとのことです。フランス人が、仏語版でアニメ化して昨年7月の第74回カンヌ国際映画祭で上映されたというのも驚きですが、日本以外ではすでに昨年11月から「The Summit of the Gods」という題名で、Netflixがこのアニメ映画も世界各国に配信しているそうです。
我々「船屋」もそうですが、「山屋」の皆さんの世界でも、専門的に一家言ある人々は多い様ですから、とても素人の私が「山を語る」などということはできませんが、この「神々の山嶺」の素晴らしさを、今回は自分なりに考えてみたいと思います。多くの方々が、この原作小説や日本映画版についてはレビューを寄せておられますので、それもひと渡り拝見しました。その印象からは、小説については、かなり登山の専門家らしい人々からも評価が高いこと、そして残念ながら日本の実写映画については、阿部寛さん(羽生丈二・役)や岡田准一さん(深町誠・役)たち俳優陣の熱演には評価が高いものの、作品自体への評価はあまり芳しいものが見られないという印象でした。もちろん常に少数の反対の意見は見られますが…。
そこで、なぜそのような原作と映画の「評価のギャップ」が生じたのかを考えてみると、一つには原作小説が、私の読んだ合本文庫版で本体部分が14頁から1058頁までの全1035頁という超長編であるのに対し、映画は122分(二時間二分)という「尺」の中に収めなければならないという制約、国も原作ではネパール側とチベット側の2カ国に跨る話であるけれども、恐らく中国側での撮影は不可能に近く、ネパール側だけで撮影しなければならなかったこと、そして映像やセリフや一部分のテロップ以外による、特に内面(思考の連なりなど)の描写が難しいことなどが、根本的な「映画化」の構造的制約としてはあるものと思います。尤も、これは本作に限らず、どのような小説や書籍の映画化や映像作品化に際しても生じる問題です。
この「難題」を見事にクリアしたり、むしろそれらを乗り越えて、原作小説を一面で凌駕する様な名作映画が生まれることもありますが、いずれにせよ、「実写映画化の困難性」が常に付き纏っていることは否定できないことでしょう。しかも、映画を小説より先に観る人も当然多いわけであり、原作の知識が全くない人が観ても、その映画作品は、十分に原作世界から独立して成立し、完結していなければなりません。
つまりは最低限以上の、そのストーリー展開の論理的整合性や、背景や基礎となる情報知識のさり気ない提供ないしは暗喩的にせよ示唆があって、全てが論理的ではないとしても、少なくとも情感的にはスムースに、ストーリーが展開してゆかねば、観ている観客はその作品世界の中で、物語の筋や登場人物の感覚・感情について行くことができなくなります。しかし、これは実に「言うは易く行なうは難し」なのです。
特に、こうして原作が超長編小説の場合には尚更でしょう。小説家は当然に、何等かの理由ないしは必然的な原因があって、「超長編」としているわけですから、それをどうしても「2時間位」が限度となる「映画という枠の中」で表現し完結させようとすると、無理がかかる部分が出てくる、つまりは「いかに省略できるか」が死命を制することになるわけです。
一方で「想像にお任せします」という、読書する場合の読者の脳のイメージに頼らない即物的な実視的部分が大きくなるという「映像作品の特性」が、不利のみならず有利に働くことも当然あります。例えば、この「映画」に出てくるカトマンドゥの街の雑多な喧騒や独特のネパールの異国情緒などは、もとより小説でも言葉で描写されていますが、映像では一目瞭然に観客に見せることができますし、偉大なるエヴェレストの勇姿そのものも、映像でそのまま観客を圧倒し、その勇姿を共有することができるのです。そして、冬山での過酷な状況や、登山家が用いる用具や登攀技術などについても、その詳細はわからずともその高度な技術性を感じさせることは十分に可能です。こうした部分については、本作映画に寄せられている辛口なレヴューの中でも、少なからず評価する声が実際見られるのです。
それでは、一体何が「辛口」のレヴューにつながっているのかを、わたくしなりに原作小説との対比で読み解くと、まずは、全体的なストーリーの圧縮方法の問題が、核心的にはあるように思われます。特にそれが、ネパールという国の実情とか、それよりも更に標高5千メートル以上のベース・キャンプや8千メートルを超えるエヴェレスト級の超高山という壮絶な環境における描写ということを鑑みれば、「あり得ない」かまたは少なくとも「あったとしても極めて例外的」なシーンが出てくるという、「山」の専門家からすると受け入れ難い状況描写があるということのようです。
例えば、「山」に登るための「高度順応」というのは、「高山病」にならないための、決して簡単ではない人間の生理学上の限界を超えてゆくステップなのですが、これは「海」の世界でも、深い海に潜る際に「潜水病」にならないための様々な減圧対策やその準備をすることにも通じる問題です。両者とも、下手をすると死を招くレベルでのプロフェッショナルな問題でもあり、素人が安易にやったりできたりするものでもないという性格が伴います。
もとよりご自身が、登山についてかなりの経験や造詣をお持ちの原作者による小説では、この辺りのことは、矛盾も破綻もなく、また専門的にも問題のない描写や設定がなされているものと思われ、書評などでもこうした批判は一切見られません。ところが、映画では、説明不足やストーリーの接合上、こうした部分に、やや無理や矛盾が入り込み、そのために専門家や登山に詳しい人からは辛口のコメントが寄せられる結果にもなっている様です。
例えば、特段の事前説明がないため、「普通のO Lさん」に思える女性が、突然5千メートル級のベース・キャンプに「高度順応」の準備もなく一緒に行くという展開とか、8千メートル級の高度で、主人公が帽子を脱いでしまうとか、強風の吹き荒れるその場所で、あるペンダントを単に手首にかけるだけ(そんなんじゃすぐに吹き飛ばされるのでは…と心配させる)とか、地元のガイドもなく主人公が直接車を運転してエヴェレスト街道にあるネパールの部落のある家を訪ねるとか・・・等々です。これらは原作小説では見事に処理されていて、上記のペンダントも手首ではなく首にしっかり掛けられます。余談ながら、もっともこの部分は、凍りついた屍体の演技をしている阿部さんの首に掛けること自体がかなり困難だったのではないかという、余計な想像をしてしまいましたが……。
その他にも原作では、しっかりとした心理描写による心境・感情の変化・変転を伴う、ある女性と主人公の恋愛感情が、映画では、しっかりとした説明もないままに描かれるため、観ている者には「この二人は一体どうなってるの」という疑問を生じさせてしまうなどの点もあります。そもそも原作小説において登場する、主人公の深町誠にとって、この女性と同等かむしろそれ以上の存在の意味を持つ別の女性の存在自体が、映画では完全に捨象されているのです。
また、専門家ならずとも、エヴェレスト登山史上最大の謎とされたマロリーの遭難場所(チベット側)と、本作の主舞台となる南西壁(ネパール側)との位置関係から生じる疑問などは、かなり核心的な矛盾点の様に見えてしまいます。こうした点も、原作小説では見事に論理的に整合する内容と展開になっているのですが、それが「時間的制約」のある映画においては、「省略された」ために、見かけ上論理破綻する結果となってしまっているのです。
従って、私のような「山の素人」でエヴェレストの地理や歴史も登山のイロハさえよく知らない人間にとっては、大半はわからないままではあるものの、それでも素人なりに海外での経験その他から、やや疑問を感じざるを得ないところはありました。そして原作小説を完読して、ようやく「こういうことだったのか」と納得できることがたくさんありました。
しかし立派なのは、原作者の夢枕獏先生のコメントです。詳しくは、ぜひ次の獏先生と岡田准一さんとの対談を読んで戴きたいのですが、獏先生は「俺は守ろうと思ったもの。この映画を観たときに…」とおっしゃったと書いてあります。(「エヴェレスト 神々の山嶺」感想/原作と実写化の関係を考える - ループ ザ ループより)
原作は原作、映画は映画として、独立した作品である以上、「何を取り上げ、何を捨てたか」は、基本的に映画制作者の判断であり、それに対する敬意を夢枕獏先生は踏まえた上で、尚且つ原作者として訴えたかったものの本質がそこに表現されていれば、それはしっかりと評価するという姿勢が伺えます。
それは一旦、全部を監督さんや役者さんに預けた以上、それを彼らがこうやろうと思って変えたことは「正解」であり、原作者が口を出しちゃいけない領域だと獏先生はおっしゃっています。それ自体も大変立派な姿勢だと思いますが、それにもまして、要は「本質的に訴えたかったこと」が共有できていたかどうか、という点が重要なのだろうと思います。
日本映画は、ハリウッド映画など外国の映画に比べると、恐らく文化人類学的な意味における「日本文化」により、言語的説明(つまりは言語による論理的な説明)には、あまり頼らずに、非言語的な「感性と情感の共有」を軸に作品を形成する傾向があるのではないか、と以前からわたくしは感じてきました。それは、日本語的に言えば、「言外の言」とか「言わずもがな」とか「行間を読む」とか「余白の美」とか、或いは「くどい」とか「ひつこい」とか「そんなことも言わないとわからないのか」とか「問答無用」等々、これらすべてひっくるめた「以心伝心」の日本文化的特性が作用しているのだと思います。
山本五十六提督が、「わかる奴は一言でわかるが、わからん奴にはどれだけ言ってもわからない」と言ったといわれる意味も、そこには通底するものがある様にも思うのです。それは、外面的・表面的な論理や知識や理屈というものを言うのではなく、もっと本質的な「根源的な価値観」や、感情・情感をも含み込んだ「人間的な感性」を意味するものであって、恐らく日本の文化の柱石を成すものの一つではないかと思われます。
しかし、一方で、これが「以心伝心」で伝わるためには、その前提として、「同じ心」が共有されているという「同質性」や「同感性」があって成立することであり、文化人類学が貢献してきた「異文化・異民族」による「意味の違い」「理解の違い」「感受性の違い」「美醜の違い」「善悪の違い」など、様々な「価値観や感性の違い」が、同じ人類であっても存在するという学術的な事実も、今世紀に生きる現代日本人は認識しなければならないのです。平たく言えば、「仲間内(ウチ)」のみで通じるものは「説明不要」であっても、現代の様に広く海外で異文化(ソト)の異国民たちが鑑賞する場合には、ある程度、その「異文化人による理解」にも耐え得る要素を、今までよりも構造的に内包させ、配置しておかねばならない、という文化的な変化・変容・変動に晒されているのです。
そしてより重要なことは、それが「同じ日本人」であっても、もはや「仲間内として通用しない」ものが多くなってきているという点です。垂直的には「世代間」の文化的相違、水平的には「同世代」でも様々な価値観・感性の相違があり、ひと昔前より、遥かにその乖離性が大きくなっているように、わたくしには感じられます。その上で、同じ日本人の中でも、広範な理解と共感を得られ、かつこれからはどしどし海外の観客にも受容され、感銘を与え得る作品とするための、「現代的工夫」はなされるべきなのかもしれません。ただ、それでも尚、「より濃厚な閉鎖性」を逆に武器として、その「文化的異質性」の中で際立つ個性や芸術性を発揮するという方向性は、当然存在しうるとは思います。その一方で、いわゆる興行的な成功を求めるならば、これはどうしても「避けられない壁」でもあるのではないか、とも思うのです。
翻って、何故にこの「神々の山嶺」の原作小説なり漫画作品が、世界の中でも独特な、鋭い芸術的感性を誇ってきたフランスの人々によって注目され、評価されたのか、という問題にも向き合わねばなりません。それが今度のアニメ映画で、どのように表現されているかを実際に観ないことには、なんとも言えないところがありますが、少なくともそれを離れても、原作小説の持つ「本質的な魅力」を考えるなかで、日本の実写映画の評価にも関わる本質的問題が浮かび上がってくる様に思えます。
あくまでも所詮は私見ですが、それは、夢枕獏先生の原作は、単なる「山岳小説としての傑作」にとどまらない、人間や人生の本質的問題に向き合っている作品であるからではないか、と思うのです。平たくいえば、「山の小説であって、山のみの作品ではない」ことに、この作品の本質の一部が根ざしているのではないかということです。
それは例えば、本記事のタイトルに掲げた「誰であろうと、自分の人生を生きる権利がある」という、原作小説と映画にも登場する伝説的な“タイガー”のバッジをイギリス政府から授与された老シェルパ、アン・ツェリンの言葉(**原作合本版779頁)のように、「人生とは何か」そして「人間とは何か」という問いを本作品は抱えているからなのだと私は思います。
試みに、わたくしが気になった部分をいくつか抜き書きしてみます。(以下、*裕鴻註記・補説等、尚、部分的に改行などは修正)
・・・動物が生きてゆくなら、食物があればいいだろう。食物と、眠ることのできる場所があれば。しかし、人間はそうじゃない。衣、食、住を満たされていれば、何も考えずに、何も行動をせずに生きてゆけるというものじゃない。人間が生きてゆくというのは、もっと、それ以外のもの、もっと高い場所にあるものを求めてゆくことではないか。
単に、長く生きることが、生きることの目的ではないのだ。これは、はっきりしている。人間が生きてゆく時に問題にすべきは、その長さや量ではなく、質ではないか。
どれだけ生きたかではなく、どのように生きたかが、重要なのだ。
生は、長さではない。
『極限への登攀』岳遊社・・・(**同上書232頁)
・・・先鋭的な山をやっていれば、いつかは死ぬことになる。
しかし――
“おまえ、何のために生きてるんだ”
鬼スラ(*谷川岳一ノ倉沢にある「鬼殺しのスラブ(巨大な一枚の岩壁)」)をやろうとした時、羽生が井上に言ったという言葉を、深町は思い出した。
“人が生きるのは、長く生きるためではないぞ”
その、火を吐くような羽生の言葉が、深町の胸に刺さっている。
“じゃ、おまえは何のために生きているのか”
井上は問うた。
“山だ”
“山って何だ”
“山は山だ。山なんだ”
“だから、その山ってのは何なんだ”
“山に登ることだ”
“だったら安全に登ればいい”
“安全のために山に登るんじゃない”
“安全は必要だ”
言われた羽生は、もどかしげに身をよじり、泣きそうな顔になった。
“いいか、井上。死は結果だ。生きた時間が長いか短いか、それはただの結果だ。死ぬだとか、生きるだとか、それが長かったとか、短かったとか、そういう結果のために山に行くんじゃない”
“おまえの言うことはわからん”
“わかれ”
“ばか”
“おまえこそばかだ。山で死んで、それでおまえは幸福か”
“いいか、その人間が、不幸か幸福だったかなども、ただの結果だ。生きたあげくの結果だ。幸福も不幸も関係ない。そういう結果を求めて、おれは山に登ってるんじゃない。井上、おれはゴミだよ。ゴミ以下の人間だ。山をやっていなけりゃな。おれは、おれがどう生きたらいいのかなんて、まるでわからないがな、山屋である羽生丈二のことならわかる”
“何がわかる”
“いいか、山屋は、山に登るから山屋なんだ。だから、山屋の羽生丈二は山に登るんだ。何があったっていい。幸福な時にも山に登る。不幸な時にだって山に登る。女がいたって、女が逃げたって、山に登っていれば、おれは山屋の羽生丈二だ。山に登らない羽生丈二はただのゴミだ”
そういう、わけのわからない会話をしたあげくに、羽生の熱気のようなものに押されて、井上は、鬼スラをやる決心をしたのである。
・・・(**同上書740~742頁)
・・・「何故、山に登る?」羽生がまた訊いてきた。
「わからない……」深町は、静かに首を左右に振った。
「あのマロリーは、そこに山があるからだと、そう言ったらしいけどね」
「違うね」羽生は言った。「違う?」
「違うさ、少なくとも、おれは違うよ」
「どう違う」
「そこに山があるからじゃない。ここに、おれがいるからだ。ここにおれがいるから、山に登るんだよ」
「―――」
「これしかなかった。他の奴みたいに、あれもできて、これもできて、そういうことの中から山を選んだんじゃない。これしかないから、山をやってるんだ。他にやり方を知らないから、これをやってるんだ。いいかい、これが気持ちがいいだなんて、一番最初の時以外、おれは一度だって思ったことはないね」
羽生の一番最初の山――それは、彼が六歳の時の山であったはずだ。家族で行った山だ。場所は信州の上高地。その帰りに、バスが事故をおこし、羽生は妹と両親を一度になくした……
「あんた、どうだ。山に、なんかいいもんでも落ちてると思ったか。自分の生き甲斐だとか、女だとか、そういうもんが山に落ちてると思ったか」・・・(**同上書749~750頁)
・・・人生にも天候がある。
人は、生きている時に出会う様々なものに、全て、ひとつずつ結論を出して生きているわけではない。多くは、そのままひきずって生きてゆく。生きてゆくということは、何かしらをひきずってゆくことなのだ。わずらわしいあれやこれやから離れ、身をきれいにして、次のことに入ってゆくわけではないのだ。・・・(**同上書827頁)
・・・よく考えてみれば、あれは、私の姿なのです。そして、あなたのね。
この世に生きる人は、全て、あのふたりの姿をしているのです。
マロリーとアーヴィンは、今も歩き続けているのです。
頂(*ピーク)にたどりつこうとして、歩いている。
歩き続けている。
そして、いつも、死は、その途上でその人に訪れるのです、
軽々しく、人の人生に価値などつけられるものではありませんが、その人が死んだ時、いったい、何の途上であったのか、たぶんそのことこそが重要なのだと思います。
私にとっても、あなたにとっても。
何かの途上であること――
あの事件が、私に何らかの教訓をもたらしてくれたとすれば、たぶんそれでしょう。
N・E・オデル インタビュー
一九八七年一月 ロンドンにて―― (*96歳で死去する一ヶ月前)
『岳望』一九八七年三月号「ヒマラヤの証言者」
・・・(**同上書1057~1058頁)
そして最後に、グランドジョラスで滑落し重傷を負って、一本のザイルだけで宙吊りになり、まさに死に直面していた羽生丈二の心の対話です。その相手は、物語で重要な存在意味を持つ、先に「山」で死んだ岸文太郎です。
・・・「きし」
と、おれは、ほんとうに声を出していた。
もうすこし、まってれば、いずれ、おまえのところに、おれは、いってやるよ。
いつか、おちる、その日までおれはゆくぞ。
おれが、おちるのをこわがって、山をやめたり、おまえのことなんかわすれて、ひとなみなことなんかをかんがえはじめたら、そういうときに、おれをつれにこい。
いまは、まだ、そのときじゃない。
おれは、おちるまではいくから。
かならず、いくから。
ただ、わざと、おちる、それだけはできないんだ。
・・・(**同上書287~288頁)
どんなに危険な岩壁を攀じ登り、どんなに死に直面していても、羽生丈二は「わざと、おちる、それだけはできないんだ」と言うのです。「わざと、おちる」ことは、自らその生命を捨て、その「山」のみならず、その人生を放棄することだからです。
またマロリーとアーヴィンのエヴェレストでの最後の姿を目撃したオデルが人生の最期に残した「その人が死んだ時、いったい、何の途上であったのか」という言葉の意味……。それは、その人が一体どのような価値の方向を志して歩む途上にあったのかという意味での、フランクル博士の「志向性の哲学」にも通じるものです。
以前、本ブログ別シリーズ「意味への意志」でもいろいろと考えましたが、「人は何のために生きるのか」、「人生の意味とは何か」という、人間にとっての根源的問題に触れているからこそ、この「神々の山嶺」という作品の本質的な深みがあるのです。そして、その「実写映画」は、様々な、時間の制約、ロケ地の制約、登場人物の人数の制約などにより、「一千頁を超える原作」から、相当な「肉と骨」を切り落とし、削ぎ落とし、「ある本質的な面」に焦点を当てて制作されたものであろうことに、改めて私は気づかされたのです。映画の最後に流れる、ベートーベン第九の「苦悩から歓喜へ」というテーマが、それを象徴しているように感じます。
「山の映画であって、実は山の映画ではない」というアンビヴァレント(ambivalent:両義性的)な本質、そのために敢えて捨象してしまったために生じた「山」の映画としてはおかしな部分や、納得できない部分……。それすらも承知で、同映画の制作陣は、バッサリと捨ててしまったのが「山」の専門性だったのかも知れません。しかし、逆に、そういう「ものの見方」で、今一度この映画をじっくり観てみると、その意味での一貫した「トリミング」の姿が浮かび上がってくるように感じました。であるからといって、その捨象した部分や専門性がどうでもいいというわけではありません。しかし、それはむしろ、この映画で観るのではなく、やはり夢枕獏先生の原作小説で堪能すべきものであるようにも思います。
マルティン・ハイデッガーは、上記のヴィクトール・エミル・フランクル博士の思想に賛同し、次のの詩を贈りました。
「 Das Vergangene geht ; Das Gewesene Kommt. 英訳すれば What has passed, has gone ; What is past, will come. 生きぬかれなかった過去は失われ、生きぬかれた過去は失われることはない。」***
この詩の意味するものを、この「神々の山嶺」もまた共有しているのではなかろうか、わたくしにはそう思えるのです。
*ご参考:「ジョン・マロリーはどこに 登山家がチョモランマに残した謎と写真の関係」
***「死なないで どんなになっても人生には意味がある」裕鴻のブログ:2022-05-07付記事
***尚、同詩の出典については下記記事ご参照