今回も引き続き、筆者が1979年12月に纏めた弊論文**《「実存分析(Existenzanalyse)」の意義と可能性―Viktor Emil Frankl研究―》の内容をご紹介することとし、その〔本論、第Ⅴ章〕に進みます。(*裕鴻註記・補説等)、なお(数字)*は、本論文**中の原註の番号です。また用語・概念などの原語は、英語に限らず独・羅・希語なども含まれています。本論文**中の「フランクル」は「Frankl」と欧文表記しています。

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 本 論:「実存分析」の意義 

MEDICA MENTE, NON MEDICAMENTIS*

(*精神で癒せ、医薬ではなく)

 

Ⅴ章:苦悩に対する態度の自由性と責任性

 

 (i)苦悩の人間存在 (Homo Patiens)

 人間が、実存するということは、一体いかなることであろうか。Franklは、「実存するということは、自己自身から出て、自己自身に向かって歩むことである。その場合、人間は身体的心理的なものの平面から出て、精神的なものの空間を通り、自ら自身に至るのである。実存(外に在る)ということは精神のうちにおいて行なわれるのである。そして人間は、彼が精神的実存として、心身の事実性である自ら自身に、向かうという意味で、すなわち精神的人格として、心身の有機体としての自ら自身に向かうという意味で、自ら自身に向かって歩むのである。(1)* 」(図5参照)


 このことは、人間の精神が、自己の心理的・身体的状況に対して、自由なる意志と責任ある態度で挑んでゆけることを示してくれる。Franklは、自由を単なる任意性から区別するのは責任であり、責任の積極的補足があってはじめて自由は自由たり得ると考えている。従って、人間は自由なる意志を持った責任性存在であるということができる。こういう存在である人間は意味への志向を持ち、意味を充足しようとして自己をのり越えてゆく(自己超越)のである。

 前章で掲げた第一の三要素のうちの(1A)「意志の自由」と(1B)「意味への意志」がこうして確認できたのであるが、では(1C)「人生の意味」とは、どういう主張であろうか。Franklによれば、「われわれの主張は、人生の意味、すなわちこれまでずっと探し求めていた意味があるということ、そしてまた、人間はこの意味の充足に従事する自由をもっているということである。(2)* 」といい、あるいは、「ロゴテラピーは二つのことを人間に意識せしめようとする。即ち、(1)いわば、人間によって満たされることを待ち望んでいる意味、(2)いわば、その人に割り当てられた仕事、いや使命というべきものを待ち望んでいる意味への意志、の二つである。(3)* 」

 この「人生の意味」は、前章で述べた第二の三要素、(2A)「創造価値」、(2B)「体験価値」、(2C)「態度価値」を通じて得ることができるのであるが、前二者は納得がゆくとしても、最後の「態度価値」をさらに考えてみる必要がある。この「態度価値」は、前章で少し触れた第三の三要素(または、悲劇の三要素)である(3A)「苦痛」(3B)「罪」(3C)「死」にかかわる。これらの悲劇的三要素は、いずれも人間には避けることのできない運命と苦悩があるのだということを示している。

 Franklは医師として、「時には人間が不可避的な苦悩に直面すること、すなわち人間はおそかれはやかれ死ぬ(べき)ものであり、そして死ぬ前には、進歩主義と科学主義によってかくも崇拝されている科学の進歩にもかかわらず、苦しまねばならない(4)* 」ことを知っている。

 そして、より一層このことは、死を宣告されたり運命づけられた人々 ― 死刑囚、強制収容所のユダヤ人、そして治療不能の病に冒された人間(例えば、今の癌や昔の結核)― が、誰よりも知っているであろう。Franklは、もちろんユダヤ人の一人としても、このことを体験したのである。死のみならず生の苦痛もある。例えば、身体障害者(*当時の表記)は生きている限りその苦痛を背負わなければならないのである。そして、その人間がいかなる信条・信仰を持つ人であろうとも、その信条・信仰が定める、悪・不義・不正・あやまち・不誠実などの「罪」を一度も犯さずに人生を全うする人はいないだろう。

   一例をあげれば、キリスト教のカトリックの教えのなかで最もわかりにくい「原罪」の概念は、筆者の解釈では、「他人の人生を横切ってしまうこと ― つまりささいなことであっても他人の運命に関与してしまうこと」であり、従って、いかに清く善良に生きたとしても〔そんなことは通常あり得ないかもしれないが〕、生まれてきて生きるかぎり「罪」を犯し続けることになる。なぜならば、他の人間に一切関わらないで、ある人間が生きて死ぬことは、通常はできないからである。

 さて、人間がこのような避けられない運命や苦悩に直面した時、えてして人間は絶望せざるを得ない。あるいは「あきらめよ」と説得されるかもしれない。

 しかし、Franklは、絶望は唯一の意味可能性しか認めないことから生じるという。そして人間は、あきらめられない、さらには、あきらめない存在であると考えるのである。

 このような窮境に直面しても、決してニヒリズム(*虚無主義)に陥るのではなく、その最後の瞬間まで、人間は自己という存在に責任を持っているのであり、そして自分が自己の運命に対して、どういう態度をとるか、という決断の自由が残されているのである。

 Franklは述べる。「重要なことは、運命は変えられないということである。だが人間は自分自身を変えることができる。さもなければ、彼(*あるいは彼女)は人間とは言えない。自分自身を形成し、また形成しなおすことができるというのが、人間であることの特権であり、人間存在の構成要素である。(5)* 」

 もし、人間がすべてを失なっても、人間には残されているものがある。これをFranklは次のように、「人生のはかなさ」に関して述べる。

   「通例、人間ははかなさという切り株畑を見るだけで、過去といういっぱいつまった穀物倉を見のがしてしまう。過去には、回復できないように失なわれるものはなく、すべてのものが回復できるように保存され、安全に引きわたされ、そして位置づけられている。何ものも何人も、われわれが過去の中に守ってきたものを、われわれからうばうことはできない。われわれがなしてしまったことは取り消すことができない。(6)* 」

 この見解は、まさに、すべてをうばわれたFranklが、どうして強制収容所を生き抜いたのか、という理由をも示しているように筆者には思われる。さらに過去に目を向けることは、現在を生きることにも、かかわってくる。「人間は何をするか、だれを愛するか、いかに苦悩するかに対して責任があ」り、「ひとたび人間が価値を実現し、ひとたび意味を充足すれば、彼(あるいは彼女)はそれをひとたびに、そして永遠に充足したのである。」

 以上のような考えは、死の宣告を受けた者 ― 特に高齢者 ― にとって大きな力となるであろう。マルティン・ハイデッガーは、Franklのこの考えに賛同して、彼に下記の詩を贈った。(7)* 

 「 Das Vergangene geht ; Das Gewesene Kommt. 英訳すれば What has passed, has gone ; What is past, will come. 生きぬかれなかった過去は失われ、生きぬかれた過去は失われることはない。」

 このような考えは、悲観主義では、決してなく、ロゴテラピーは、人間がとる態度によっては肯定的達成へと「悲劇の三要素 (*苦痛・罪・死)」を変換させることを教えるのであり、むしろ楽観主義的接近法なのである。

   しかし、「ここで、今私(*Frankl)が述べているのは『変えることのできない運命』についてだけであることを、強調させてほしい。治療可能な病気や、手術可能ながんの苦痛を受容することは、いかなる意味をも生み出さないであろう。それは英雄的行為ではなくて、むしろマゾヒズムの一形式であろう。(8)* 」と、Franklは注意し、苦悩は、「あらゆる手段で、いかなる代価をはらっても除去されねばならないもの」であると考えているのである。

   ただ、どうしても避けえない苦悩については、これと直面し、「人間性によって自分の苦悩をのり越え、ある態度をとることができる (9)* 」のが、苦悩する人間存在(Homo Patiens)としての本来の姿であると考えているのである。よって、「苦悩すること」は、決して病気ではなく、むしろ健全な人間的資質であり、苦悩という契機によって、人間は自己超越 ― すなわち精神的な成長 ― を遂げることができるのである。

   だから、死を目前にして、人間が不安になり神経症的状態になることを、フロイト派の精神分析は「去勢恐怖」によるものだと解釈したりするが、これは、以上のような意味で誤りであり、人間の実存そのものが、健全に苦悩と直面している状態なのである。このような人々には、むしろ自己の人生の意味を考え、最後の瞬間まで生きる勇気を持つよう励ますべきなのではないだろうか。

 

(ii)ロゴテラピー(Logotherapie)の技法と意義

 ロゴテラピーは、三つの技法を持っており、それぞれ「反省除去」「逆説的志向」「医学的精神指導」と呼ばれることはすでに述べた。このうち前二者は、主に「神経症」に用いられ、後者は、治療不能な「精神病(重症)」や病気にかかっている人、および精神因性神経症に関して用いられることが多い。ロゴテラピーの技法について詳論することは、あまりにも医学的・専門的問題が介入し、また本稿が意図するものでもないので、ここでは、あくまで概要に触れるにとどめざるを得ない。

 さて、神経症には、典型的な悪循環がある。下図(図6)を参照されたい。(10)*


 神経症にかかる人は、まず何らかのきっかけで症状(卒倒など)がおこると、それに極度なまでの注意を払うようになったり(「反省過剰」)、その症状を克服しようあるいは避けようとする極度なまでの意図をもつようになる(「意図過剰」)。そしてそれらが、ますます症状についての、あるいは「自分はノイローゼ(神経症)ではないか。」ということについての恐怖症を呼び起こし、それがさらに二度目以上の症状・発作を引きおこし、それによってますます恐怖症を強め、……というふうなパターンに陥ってしまうのである。そこで、「反省除去」は、主に性神経症に用いられるのであるが、注意することをやめさせ、本来の目的や機能や要請に患者の意図を向けさせるのである。(このことについては、Ⅳ章(i)節の例を思いだしてほしい。)

 このことを簡単に説明するため、Franklは次のような物語をあげる。「どんな順序で足を動かすのかと敵にきかれたムカデ(百足)は、そのことに注意を向けたとたんに、足を動かすことが全くできなくなってしまった。そしてムカデは飢えのために死んでしまったという。このムカデは、決定的な「反省過剰」のために死んだといえないだろうか。(11)* 」

 また「逆説的志向」は、患者の「期待不安」(恐怖が、まさにその人の恐れていることを起こさせる傾向)を取り除くため、患者にその患者が怖れていることをさせることによって、恐怖から逃避するのではなく、恐怖に挑ませることによって、神経症の悪循環をうち破るものである。

   その症例をひとつだけあげると、「その患者は、外出するたびに街頭で倒れるだろうという恐怖におそわれているので、外出することを拒否していた。外出したとしても、そのたびに数歩あるいてすぐ帰ってくるのであった。彼は恐怖から逃げていたのである。彼は総合病院の私の科(*神経科)に入ってきた。私のところの職員が彼について十分調べ、彼の心臓には何も悪いところがないということを確かめた。医師のひとりが彼にそのことを告げた。そして、街頭に出て行って心臓発作を起こそうとするべきだ、と助言したのである。その医師は彼に、『あなたは自分自身に、きのう心臓発作を二度起こした、きょうは、まだ朝早いのだから三度起こす時間がある、といい聞かせなさい。あなたは自分自身に、立派で太い冠状動脈、そしておまけに発作をもつだろう、といい聞かせなさい』と、告げたのである。そこではじめてその患者は、自分を閉じ込めていたまゆを打ち破ることができた。(12)* 」

   このようにユーモラスな方法で、「逆説的志向」は行なわれるべきだと、Franklは主張する。なぜならば、「ユーモアは本当に明白に人間的現象である(13)* 」からである。

   このように「反省除去」も「逆説的志向」も、人間的現象である自己分離と自己超越の能力を用いて行なわれるのである。

 さて、次は、「医学的精神指導」であるが、これは、前節であげたような、変えることのできない運命を背負っている人々に、自分が窮境においても、自分の人生を意味で満たしうるような態度をとれるのだということを示すのである。ただし、注意しなければならないのは、ロゴテラピーの役目はあくまで触媒なのであり、決していかなる価値をもおしつけたり、提示して受け容れるよう説得したりするものではないことである。ただ相手の発想を柔軟にし、転換させて、その独自な人間存在が、その独自な状況において、独自な意味を自分自身で発見できるようにうながすことなのである。

 以上がロゴテラピーの技法であるが、最後に、その意義について触れておきたい。

 ロゴテラピーそして実存分析における人間観では、人間はむしろ緊張を求め、緊張の中に生き、そして苦悩することが健全な人間的営みであると考えられているように思われる。

 これは、第一の三要素で考えてみれば、「意志の自由」(1A)においては、「自由と責任」の間の緊張状況に生き、「意味への意志」(1B)においては、「理想と現実」の間の緊張状況に悩み、「人生の意味」(1C)においては、「相対主義(評価過程をも含めた(14)* )と主観主義」の間の緊張状況のなかで志向するのが人間存在の実相ではあるまいか。(15)*

 ともあれ、本稿で追跡してきた実存分析の根本的な意義は、人間を閉じられた「機械モデル」で解釈するのではなく、開かれたありのままの存在(*実存)としての人間に、その精神性の次元から接近してゆく態度にある、と筆者には思われるのである。

 

〔Ⅴ章の註〕

(1)* フランクル『神経症Ⅱ』(みすず書房)1961年、97頁(図5も同じ)

(2)* フランクル『意味への意志』(ブレーン出版)昭和54年、82頁

(3)* フランクル『現代人の病 ― 心理療法と実存哲学 ― 』1972年(丸善)、84頁

(4)* フランクル前掲『意味への意志』、86頁

(5)* 同上書、87頁

(6)* 同上書、88頁

(7)* フランクル前掲『現代人の病』、42頁

(8)* フランクル前掲『意味への意志』、85頁

(9)* 同上書、89頁

(10)* 同上書、124頁(図6も同じ)

(11)* 同上書、122~123頁

(12)* 同上書、127頁

(13)* 同上書、129頁

(14)* このことについては、終論の文化相対主義を参照されたい。

(15)* この見解はFranklのものではなく、筆者の全くの私見である。

・・・(**本論文153~182頁)

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 尚、付加的に少しご説明しておきますと、精神病と神経症は異なるものであり、前者は明らかに特定的で特有の統合失調症などの精神的な病気ですが、後者は通常の人々が日常性のなかで、呈することのある症状であり、あなたも私も、ごく普通の人でも発症するものなのです。

   いわゆるノイローゼというものですが、これは精神病ではありません。身体のある部分に怪我をしたような状態に似て、いわば心に怪我をして傷を負ったような状態なのです。従って、どんな人でも、誰でもがなりうるのが神経症なのです。ということは、神経症は治療もできれば、治癒もするものなのです。そこには、フランクル流にいえば、「意味の充足による癒し」があるのです。

   尚、現在は神経症という用語と諸症状は、様々な種類の精神障害などに置き換えられています。しかしわが国では、訳語も含め用語の不統一もある様ですし、時代的にもフランクルの著作では、旧来の神経症の概念と用語を使用していますので、本論文**も本稿も、そのまま当時の表現を使用しています。むしろフランクルの次元的人間学が提起している構造的な理解は、現代にも通じる本質的な問題点を示していると考えられます。

   それでは今回はここまでと致します。(次回に続く)