わたくしと同年代の俳優渡辺裕之さんがお亡くなりになり、とても残念です。ご遺族には、心より哀悼の意を表します。近年竹内結子さんや、神田沙也加さん、三浦春馬さんなど、才能や魅力に溢れた方々の訃報に接し、誠に心が痛みますが、次の日経記事によれば、こうした有名人のみならず、少なからぬ子どもたちをも含む年間二万人を超える日本人が、自らの命を絶っているのです。



   ここのところ、取り上げてきたフランクル博士は、机上の理論家や思想家としてのみ生きた方ではなく、そのご職業は、ウィーン大学医学部精神科教授でウィーン市立病院神経科部長を兼任されていた精神科医でした。つまり臨床医として実際に数多くの神経症患者の治療にあたっておられた生涯だったのです。

   大学の教授としての教育研究と同時に、臨床医として大病院の部長を勤めていたのですから、その現役時代の毎日は多忙を極めていたのです。ある日、疲れ切って自宅に戻ったフランクル博士は、真夜中の午前三時に見ず知らずの女性からかかってきた電話に起こされました。その人は、自分の人生に絶望したので、これから自殺しようと思っている、ただフランクル先生のことを知ったので最後に電話をかけてみたというのです。それからフランクル先生はありとあらゆる精神科医としての臨床経験と精神医学上の理論を駆使して説得し続け、ついにその日の午前九時に市立病院の神経科部長室を訪ねることを約束させました。

   そしてその女性が訪ねて来たとき、フランクル先生が言うには、その人は自分が言葉を尽くして説明した如何なる内容をも理解したわけでもなく、ただ高名な大病院の部長先生が、自分の話しを夜中に長い時間聴いてくれ、辛抱強く自殺しないように話してくれたということに心を動かされ、このようなことが起きるこの世の中には、ひょっとして生きていればもう少しよいこともあるかもしれないと思ったのが、自殺を取り止めた理由だったというのです。

   この話を、フランクル先生はややユーモアを交えて語っておられるのですが、であるからと言って、フランクル博士の理論や治療技法に全く意味がないという意味ではありません。むしろフランクル先生のロゴテラピイ(治療技法)の本質は、患者自身が自分で、自らの生きる意味を発見することにあるからです。

   その山に登る道は千差万別で、様々な小道も迂回路もあるいは道のない場所をも時には踏み渡り、自らが信じる方向に道を見出しながら一歩一歩進んでゆくことなのです。苦しいときは、次の一歩のことだけを考え、その一歩を踏み出したらひと呼吸して、そしてまた次の一歩だけを考えて足を出して進み、疲れたらひと呼吸だけ歩を休め、また気を取り直して次の一歩だけを考えて進んでゆく。そうすれば、いつの間にか振り返るとかなりの道のりを進んでいる。私の知り合いの元早稲田大学探検部の方が教えてくれた、苦しいときの登山の方法です。

   死や、不治の病気や、様々な障碍という避けることも、消し去ることもできない苦難や苦悩に直面し、苛まされるのが人間存在です。避けられる苦難だけではなく、どのような人間にも、全員がどうしても避けられない宿命が最期の「死」なのです。あなたもわたしも、彼も彼女も、いずれはいつか必ず死を迎えます。それが生命あるものの定めなのです。そうやって百万年以上ともいわれる永い時間を人類は生き抜き、私たち一人一人にその「いのち」を繋いでくれたのです。

   わたしたち一人一人が、その百万年以上受け継がれてきた「いのち」を、与えられた自分の人生の期間、どのように活かすかを、委ねられています。父母の代、そのまたそれぞれの二組の祖父母の代というふうに、二人の二の倍数で少し電卓をはじいてみればわかる通り、自分自身の先祖だけでも、数限りない多くの人々が、この生命のバトンを受け渡してつないでくれたのです。例えば、27世代遡ればご先祖さまの総計は軽く一億三千万人を超えるのです。仮に平均25歳で子供をなしたとすれば、675年間だけでこの人数になります。

   だから、この自分の「いのち」は、自分一人だけのものではなく、この百万年間、「いのち」を受け継いできてくれた、大勢のご先祖さまたちの「いのち」の結晶でもあるのです。

   そのことを考えてみれば、仮に自分が一人もその「いのち」を次につなぐことはない人も含めて、せめて自分自身に受け継がれ、与えられたこの「いのち」だけは大切にして、病気か事故か老衰か、何が原因となるとしても、自死ではなく、やむを得なくてその死がどうしても自分に訪れるその日その瞬間までは、人類として人間として、受け継がれてきたこの「いのちの灯」を守り、最期まで生き抜くことが、わたくしたちの宿命であり、各人の「人生の任務」なのです。


   マルティン・ハイデッガーは、上述のフランクル先生に賛同し、次のの詩を贈りました。

「 Das Vergangene geht ; Das Gewesene Kommt. 英訳すれば What has passed, has gone ; What is past, will come. 生きぬかれなかった過去は失われ、生きぬかれた過去は失われることはない。」


   それが、どんなに苦しくとも、悲しくとも、また疲れ果て、絶望に喘ごうとも…。立派でなくともいい、何も大したことをしていなくてもいい、あがくだけの人生でもいい、ただただ最期の瞬間まで、とにかく息を自分ではとめないで、ただ生き抜くだけで、充分に人生の意味はあるのです。その人生の最期に対して執る自分の態度だけは、意識のある限り、各自の自由な意志に委ねられているのですから。


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