差別の構造
差別とは差別をした側が差別をしたという認識をもっているのか?意図を持って差別をする人もいるけど多いのは差別のつもりなく差別してるのじゃないか?と、最近思いました。テレ朝のモーニングショーでユダヤ人差別発言があったとして問題になりましたユダヤ人差別発言をしたにもかかわらずその場にいた誰も諌めず抗議が来てから、謝罪、、いや、謝罪風差別の意図はないと釈明してるのですが『ましてやユダヤ人は…』という発言から理由はユダヤ人だから、交渉するなということですそこに差別の意図はないと言ってしまうこと差別を差別と思わずにナチュラルに差別しているという恐ろしさを感じましたホロコーストは『悪いのは全てユダヤ人』というプロパガンダのもと引き起こされたのですユダヤ人にはら何をしてもいいユダヤ人には何を言ってもいいなぜなら、ユダヤ人は凶悪だから社会が壊れるといった風潮でユダヤ人をこの世から排除しようとした今とそっくりだと思いますさすがに国家レベルでユダヤ人を排除を扇動してはいないけどユダヤ人、あるいはイスラエル人やシオニストという言葉に置き換えてこの世の悪はシオニストのせいだ!と、激昂する人がなんと多いのでしょうかだからメディアで言ってはいけないことを言ってしまう共演者も司会も番組スタッフも誰も気づかない“人権“を訴えてるテレ朝自体がその異様さに気づかない確実に日本の社会がユダヤ人、あるいはイスラエル人は凶悪なので何を言ってもいい空気感が醸成されてしまっていると感じますなんでもそうですかつて女性には人権がなく子どもをうまなければ離縁されたり貧しい家では女性や子どもは売られたりしたそうしても良い存在だと誰もが思っていた現在の世の中は“女性だから“と蔑むことには敏感です属性に対する決めつけを嫌います“お母さん食堂“というスローガンまで否定されたのですやりすぎなほど“平等感”を出す裏であきらかな差別は醸成されていく社会の矛盾と人間とは同じ過ちを繰り返していくものであると、そういう生き物なのだと思わざるを得ず無自覚な悪意ほど恐ろしいものはないな、、と感じました