日々の運動不足から、定期的なスポーツとしてモルックを選んだ、弱小チームが無謀にも東京大会にエントリーするまで。


ここから、前回のつづき。



モルックのルールが理解できたら

あとは、ひたすら棒を投げて

とにかく50点を目指す。


公式戦では、3人もしくは4人チームで

1人ずつ、交代で投げるため、

仮にAチーム(3人)、Bチーム(4人)が

対戦する場合、投げる順番は、


A(1人目)→B(1人目)→A(2人目)→B(2人目)

→A(3人目)→B(3人目)→A(1人目)→B(4人目)

→A(2人目)→B(2人目)→…


と巡回していくため、

「チームの総合力」が問われる。


つまり、べらぼうに上手いエース級選手が

1人いるだけでは、まったく勝てない。


獲得点数が50点をオーバーすると、

25点に逆戻りなため、大幅なロスとなる。

また、一本も倒せないターンが

3連続続くと、強制的に失格となるので、


試合のときは、いかにチーム内で

状況把握、戦略の共有が出来るかが

勝利のためには欠かせない。



練習には、できるだけ平坦な土地で芝生がある公園や、クレイの運動場などが望ましく、投げるエリアも人の通り道ではない安全な場所を確保しなくてはならない。


モルックチームの最初の課題は

練習場所の確保ということになる。


東京都内の芝生のある公園などは、

ネットにもまとめサイトが

作られているので、ぜひ参照して欲しい。


投げる際には、モルック棒をいかに

「平行にしたまま投げられるか」

が、とにかく大事。



こんな風に、手から離れたときに

平行であれば地面に着地したときも

明後日の方向に飛んで行かない。


明後日の方向に飛んでいくと

うっかり、0本となったり

50点間際に、必要以上の

点数を集めて、25点にループしたりする。


こうなっては、強者揃いの

公式戦ではまず勝てない。


また、ゲームが終盤になると

モルックのピンが遠くに飛ばされがちに

なるので、コントロール力も大事になる。


全員が平均的にレベルアップをして

いくことが、競技として不可欠なのだ。


私たちは毎週土日のどちらかに

予定を合わせ、最初はとにかく

ゲームの流れを覚えることに専念した。


シンプルなルールな反面、

どのように、ゲーム展開をしていくかは

実践あるのみなのだ。


ゲーム序盤では、棒が散らばらずに、

まとまりがちになるので、

いかに多くの本数を一度に倒せるか


中盤では、狙った高得点のピン(特に12点)

が、ライバルに取られないよう

いかに遠くに飛ばすようヒットさせられるか


また高得点をゲットするより、

相手チームの必要な点数のピンを

先回りして取りにくくさせるなど、


具体的な戦略と、それを実行するためには

結構、練習量が必要となる。


ただ、これがサッカーや野球のように

相手を絶対倒すメンタリティの

スポーツだと、やや殺伐とした感じになるが


高得点のピンを倒したり、かなりコントロールよくヒットさせると、対戦相手から拍手されたり

逆に2回0本が続いて、もう後がない時などは、頑張れーと応援してもらったりと、


かなりスポーツマンシップにアツい競技なので、文系陰キャヲタ上がりの、私たちでさえ、優しく迎え入れられる、懐の広い競技なのだ。


次回は、初心者チームが東京大会に挑んだ際のお話。モルックセットは、ネットでも簡単に手に入るので、まずは近くの公園でプレイしてみて欲しい。とても楽しいので!


06.16 柚木

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◼️ 足腰首 賽河原(さいのかわら)の石さながらに脆く崩れればモルックは堕つ


2022 NEWモデル モルック【日本正規代理店品】(特に私のアフィリエイトになるわけじゃ無いけど、これ買えば長く遊べます!)





昨日はファンテイルくんと曲作りのため、スタジオ入り。

8月20日に横浜市民ギャラリーあざみ野


レコーディングももちろんします。

そして、写真家の中筋純さんとの写真映像とのコラボで、いずれYouTubeでも配信します。

その時にはお知らせしますね。



昨日は一曲目を再考しつつ、二曲目へ突入❣️

一曲目の『深呼吸できない世界』とは違った曲です😊

ほぼ9割くらいできました。

来週のスタジオ入りも楽しみです✨



「なみえちょう」何度言っても間違える人に伝えるわが「なみえまち」/三原由起子


10年ぶりくらいに、

ラジオ体操をフルセットでやったところ

無事、身体がバラバラになり

日頃の運動不足を思い知った。


ウェルネストレーナーの台頭など

10年前より、明らかに

フィットネスが身近になり

街を歩けば、しっかり鍛えている人と

すれ違うことが多くなった。


かくいう私も、ジムで

ある程度の筋トレを継続しているが


全身の筋肉を隅々迄用いる

ラジオ体操は、本当に効率よく

身体を動かせるプログラムとして

完成していると思い知らされる。


私たちが小学生のころは

朝7時から公園に集い、

ラジオ体操をさせられたが


そこには必ず近所の爺さん婆さんが

子供たちを威嚇するように

ダイナミックな動きで

参加していたのを思い出す。


あの時は、爺さんの

オーバーな動きを、子供ながら

冷笑気味に見ていたものだが


いま、30代半ばであるが

このラジオ体操を一回踊ると

散り散りになるような私では

あの高みには辿り着くことが

できないことを思い知る。


まず、「朝7時に公園に着く」

ということが人間技ではない。


そんな、日々の運動不足に

不安を抱いているのは私だけでは

無かったらしく、されど

有酸素運動はしたくないという

わがままな友人達の間で、


継続可能な、適度なスポーツとして

モルック練習が開催されることになった。

私も興味本位で顔を出すことにした。



まず、モルックとは、

フィンランドのスポーツで、


1から12までの数字が書かれた

12本の木のピンを、

木の棒を投げて、倒していくゲーム。


倒した木の本数に応じて、

得点が加算されるが、


倒したピンが1本の場合は、

書かれた数が、そのまま得点になるので、


11や12といった高得点ピンを

積極的に狙うこととなる。



トータル50点を、

いち早く揃えたプレイヤーの勝ちとなる。


参加するプレイヤーが順々に投げるので、

相手に取られたくない高得点の棒は

率先して、木の棒をぶつけ遠くに飛ばすなど

戦略が求められるゲームでもある。



投擲(とうてき)は、アンダースローのみ。

この棒を拾って投げたり、倒れたポールを

起こしに、しゃがんだりをしていると

地味に運動になる。ラジオ体操同様、

よく考えられたスポーツだ。


最近は、公園でもモルックをする

人達がちらほら見かけられるようになり、

これからどんどんメジャーになることが

予想される。


実は、何を思ったか私の友人達は

モルックを始めたばかりなのに、

もう公式大会へのエントリーも済んでおり

いきなり予選突破に向けた

詰め込み練習が始まることになった。


06.13 柚木

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モルックの棒転(まろ)ばせば土くれと若草蹴りて緑(りょく)の跳ねあぐ



東京の先生とはマンツーマンで、個人的なレッスンなので、発表会というものがないため、甥っ子の発表会に参加させてもらうことに。
なので、いわきに住んでいる甥っ子のドラムの先生にも、いわきに行った際には指導を受けることにしました。

東京の先生もいわきの先生も良い先生なので、本当にありがたいです。
基本的にドラマーの人は、人を包み込むような優しさがあると思います。
発表会まで4ヶ月!がんばるぞー😊

包み込む優しさを持つにんげんになりたくてわれはドラム始める/三原由起子

いまは、携帯データの

オンラインストレージ化という

画期的技術によって、


私が撮ってきた2008年以降の写真は、

すべてクラウド上に保存されており、

普段の写真や前髪を確認するための自撮り、

ちょっとしたスクリーンショットまで

ネットの海のぷかぷかと浮かんでいる。


自分が撮った写真なので

その一つ一つが懐かしく、

あっという間に時間が過ぎる。


そんな膨大なデータを遡っていくと、

友人達とパリに行き、

ノートルダム大聖堂を訪ねた日の写真が

見つかった。いくつか掲載したい。



曇り空に溶け込むように、黒い外観が印象的な大聖堂の裏手。噴水の位置にも、すべてに意味がある。



建物の周囲には、ガーゴイルを模した雨樋。造形の圧倒的な緻密さと正確さが美しい。




内部には、荘厳なシャンデリアと聖書に準えたステンドグラスが施され、パリ市民にとって、大切な祈りの場所であったことが伺える。



この素晴らしい建物が全て焼け落ち、今はもう同じものを目にすることができないことが悲しくて仕方がない。


当日の私。海外に行く前に髪を切ってから行け!と、この写真を見直すたびに思う。。。


このノートルダムは、

私の中でもう一つ、

永遠に忘れられない場所となっている。


実は、この教会を訪れた日が、

2011年3月11日だったからだ。


パリの市内のカフェのテレビには、津波で流される福島沿岸部の様子が流されて、私たちは呆然とすることしか出来なかった。別のテーブルのパリジャンたちが視界の端で、私たち日本人観光客の噂をしているのが伝わってくる。


自分の国でそんな事が起こっているような実感が湧かないまま、本当に他人事のようだった。とにかく何が起こってるから分からず、簡単な食事を済ませた後、その日はホテルに帰った。


東京は、震度5で都市機能はダウン。私も私で、特に誰にも伝えずにヨーロッパに遊びに来ていたので、日本からは何人かの友人が、安否確認の着信履歴が残っていた。海外からの、高額な電話代を支払うことが頭をよぎり、連絡の優先度が高い相手を履歴の中から探していると、母親から電話がかかってきた。


電話の向こうの母親は、私の声を聴き、ひとまず安堵すると、私が連絡無しに海外に来ていることを二言、三言嗜(たしな)めた。その後、父が、つい数時間前に福島第二の視察に行っていたこと。いまは連絡がつかないことを、落ち着いた声で私に告げた。


母親の中では、父親の無事を、心のどこかで確信していたのか、うろたえず、ただ事実だけを淡々と伝えてきた。いま思い出してもなかなか肝が座っているなと感じる。


この時は、臨界事故もまだ報道されていなかったが、日本全体が、本当に大丈夫なのだろうか、と不安になり、真偽も定かでないネットニュースや、普段はバカにしていた日刊ゲンダイの記事まで、やけに真実味を帯びて来たことを覚えている。


後々分かったことなのだが、その時、父親は数時間前に福島第二からは離れており、海岸近くの取引先のビルで会議をしていたところ、津波に襲われ、5階立てビルの3階まで海水が迫っていた。一晩か二晩か、水が引くまでただ助けを待つしかなかったという。もう家族に会えないことも覚悟していたらしい。


そして、海水が引いた後に、地震現場から、タクシーが来ることのできるギリギリの場所まで、自分たちの足で歩いて、生き残った。父は多く語らなかったので、その道中で見たことも聞けないし、できればもう思い出させないであげたい。


私は私で、震災直後のヨーロッパの様子を見ているので、いずれきちんとした形で、その時の様子を文章にまとめたいと、写真を見返しながら思った。


ヨーロッパを回りながら、フランス語やイタリア語のニュースで、細切れに日本の様子を見聞きしながら、もし異邦人として、全く違う国で生きることを余儀なくされたらどうしたら生きていけるのかと、不安に包まれた旅程。


その時の気持ちは、この写真群を見返しながらなら、今もありありと思い浮かべられそうだ。


06.11 柚木

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背(せな)に岸 寄せては返す追憶のはるか頭上に鳶の鳴く声