「父なる歌」「母なる歌」 | 雪太郎の「万葉集」

雪太郎の「万葉集」

私なりの「万葉集」解釈
カレンダー写真は「鴻上 修」氏撮影

 1、997年、滋賀県甲賀市信楽町の「紫香楽宮跡」とされる「宮町遺跡」の排水路と推定される溝から「歌木簡」が出土しました。幅は最大2.2cm、長さは7.9cmと14cmの2片に分かれておりました。厚さが約1ミリしかなかったため長らく木簡の表面を削った「木くず」と考えられていました。2、007年、大阪市立大学の栄原永遠男(さかえはらとわお)教授が赤外線撮影によって表裏20文字を確認いたしました。文字の配列などから元の全長は約60cmだったと推定されています。宮殿で和歌についての講話がなされ、それを聴講した人がメモとして書いたものではないかと推定されています。そこに書かれていた歌が「父なる歌」とされる「難波津に咲くやこの花冬こもり今は春べと咲くや木の花」(13文字)と「母なる歌」とされる「安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」(7文字)です。表記は「万葉仮名」ですが日本語の1音を漢字1字で表す形で、「訓読み」の漢字(訓字)主体の表記である「万葉集」とは異なっておりました。万葉集の歌が木簡で出土したのは初めてでした。一緒に出土した荷札の年号から木簡が記された時期も(万葉集が編纂される前の)744年末から翌745年初めと特定されました。約1,300年の時を経て私たちが目にすることになったわけです。この2首は905年に成立した「古今和歌集」の序文の中で在原業平が「これから和歌を学ぼうとする者はこの2首を《和歌の父母》として必ず学ばなければならないと記述していた歌でした。「難波津の歌」は聖武天皇による「難波遷都」を喜ぶとともに皇室の弥栄を寿ぐという「公」の性質の強い歌(父なる歌)です。それにに対し「安積山の歌」は、「日常朗詠歌的」な性質の強い歌(母なる歌)です。この歌の詞書には「724年、陸奥の国に派遣された「葛城王」(橘諸兄)が郡山にあった「郡衙」に立ち寄った際の宴席で、国司の接待がおざなりだとして機嫌を損ね、準備された酒食に手をつけようともしなくなり、気まずい空気に包まれ皆がどうしてよいかわからなくなった窮地を、かつて「采女」だった女性が左手に盃、右手に銚子を持ち雅な姿態で王に近付き当意即妙に(私はあなた様を浅い心で思っているわけではありません)という意味のこの歌を口ずさんだところ、王の心がほぐれ一日中楽しく過ごした」ということが書かれています。