雪太郎の「万葉集」

雪太郎の「万葉集」

私なりの「万葉集」解釈

 額田王、近江天皇(あふみのすめらみこと)を思(しの)ひて作る歌

君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾動かし秋の風吹く

 巻4 488 額田王(ぬかたのおほきみ)

 あのお方のおいでを待って恋い焦がれていると、折しも家の戸口の簾をさやさやと動かして秋の風が吹いています(近江天皇は天智天皇)

風をだに恋ふるは羨(とも) 風をだに来むとし待たば何か嘆かむ

 巻4 489 鏡王女(かがみのおほきみ)

 ああ秋の風、その風の音にさえ恋心がゆさぶられるとは羨ましい。風にさえ胸ときめかして、もしやおいでかと待つことができるなら何を嘆くことがありましょう。

(前歌に和した歌で鏡王女は額田王の姉のようです。)

「ともし(羨し、乏し)」は「求(と)む」と関係があり、(求めているのに手に入らない、会えない)というのが原義で中世以降「とぼし」に転じました。

 当時は一夫多妻のうえに「通い婚」で、妻は夫が訪ねてくるのを待つばかりでした。

「額田王」は、飛鳥時代を代表する女性歌人で、はじめ「天武天皇」と結婚しましたが、別れて兄の「天智天皇」の后になりました。万葉集には12首載っています。

 季節に合った歌か少し季節を先取りした歌を取り上げてきましたが、今の季節に合う歌でカレンダーで取り上げた歌がなかったので「秋」の歌になってしまいました。

 

 

 旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴(たづ)群れ

 巻9 1791 遣唐使の親母

 大空を舞う鶴の群よ、凍てつく大地で息子が野宿するようなことがあったら、どうかその大きな翼で暖めてやってほしい

 母親の子を思う情愛が伝わってくる歌です。母親が子を思う情愛を表現した言葉に「焼野(やけの)の雉(きぎす)夜の鶴」があります。野を焼かれた時に、雉の母は自分の命にかえても子を助けようとし、鶴の母は凍てつくような寒い夜には羽でくるんで我が子を守ります。この歌が詠まれたのは天平五年(733年)4月3日と書かれていますから「旧暦」ですので初夏です。それでも冬の野宿の寒さを思う痛いほどの親心です。題詞に「一人っ子」だったことが書かれています。

 「羽ぐくむ」の語源は「羽含む」だと言われます。親が羽で包み込んで子を守ることから(愛育する)意味に発展しました。

 「WASP」という言葉は最早「死語」に近い。私が受験生の頃「小論文」などのテーマに取り上げられていました。White Anglo-Saxon Protestant の頭文字を連ねた言葉です(SはSuburbanという説もあります)。WASPでイギリス系の上流階級が、かつてはアメリカの社会・文化・政治などの分野を支配する「エリート」でした。「ジェンダー平等」が叫ばれ「LGBT」への差別をなくす気運が高まっている現在とは隔世の感があります。

 私は(黄色人種の日本人)で人種で差別する考えはありませんが、毎日頭を抱えているのがFacebookに「友達」投稿されてくる「黒人」を中心とする「異国人」です。多い日には800人を越えます。無視すればよいのですが何となく気になり「削除」しています。インターネットを始めたばかりの頃、たいした理由もなく登録したまま放置しておりました。交流は全くありません。消すのが何となくもったいない気がしてそのままにしていましたが、Facebookの「削除」もやむなしと考えるようになってきました。自分の名前が有名になりたいと考えたことは全くありません。有名になって得るものは何もありませんし、様々な被害にあう危険性が高まるから無名のままSNSを続けたいというのが、偽りのない本心です。ブログを書いていますが「小遣いを稼ごう」などという気は全くありません。「書く場所」を提供して頂いていることに感謝しながら「趣味」で書かせていただいています。

  大伴宿祢家持に贈る歌

陸奥(みちのく)の真野の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆといふものを

 巻3 396 笠女郎(かさのいらつめ)

 陸奥の真野の草原は遠くの地にありますが(面影としてははっきり見える)と言われているのに(近くにいるあなたは)どうして逢いに来てくださらないのですか

 「陸奥(みちのく)」は、現在は「東北地方」の意味で使われていますが、元来は(東山道)の意味でした。「真野」は福島県南相馬市の「真野川」流域。真野川は「鹿島町」で太平洋に注いでいて、周辺は「漁港」になっています。「真野」は(真草の生えている野)を表す「普通名詞」でしたが地名という「固有名詞」に転じた例の一つです。「真草(まくさ)」は(茅葺き屋根に使われていた)ススキなどの美称です。真野で良質な茅が大量に収穫されていたことからブランドのようになり、やがて「歌枕」になったと想像されます。「万葉公園グラウンド」に、この歌の「歌碑」が建っています。公園の西側には斎藤茂吉が伝統行事である「相馬野馬追」の騎馬武者を詠んだ「みちのくの相馬郡(ごほり)の馬のむれ あかとき雲に浮けるがごとし」の歌碑も建っています。相馬野馬追では甲冑を纏った約400騎の騎馬武者が旗指物を背に行進し、雲雀ケ原祭場では「神旗争奪戦」が行われます。今年は外国人も2名参加しました。

 「真野」は(家持と笠女郎)にとっては(未見未踏の地)であったと思われます。「といふ」から(遠い土地の比喩として「真野」が一般的に使われていた)と思われます。「見ゆ」の「ゆ」については(自発)の意味で使われることの多い助動詞ですが、ここでは(可能)の意味合いが強いと思われます。

 「草原」を(かやはら)と読んでいますが「ススキ」を指すと思われます。ススキは日本で最も個体数の多い植物です。

 

 月夜(つくよ)よし川の音清し いざここに行くも行かぬも遊びて行かむ

 巻4 571 大伴四綱(よつな)

 月夜もよいし川の音も清らかだ。さあ、今宵この時に都へ行く人も筑紫に残る人も歓を尽くしてから別れることにしよう

 「ここに」を(この場所で)と訳している本と(このに)と訳している本がありましたが、後者を採用いたしました。また、「川の音清し」を(かわのねきよし)ではなく(かわとさやけし)と読み下している方がおりました。「行く」の言葉遊びかと思いましたが、漢字本文を見ると「ゆく」が「行く、去く、帰く」と使い分けられておりました。

 大伴四綱には、「真人・朝臣・宿祢・忌寸・道師・臣・連・稲置」などの「八色(やくさ)の姓(かばね)」は記されていません。「遊び」は(詩歌・管弦の遊び)です。

 天平二年(730年)12月、従三位「太宰帥」だった「大伴旅人」が正三位「大納言」に任じられ帰京(奈良の都)する時に、筑前の国蘆城(あしき)の駅家(うまや)での「餞宴」で詠まれた四首の中の一首です(餞別として歌を贈った)。

 大宰府の四等官で正七位上相当の「大典麻田連陽春(だいてんあさだのむらじやす)」が詠んだ歌二首。

 韓人(からひと)の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも(巻4 569)

 韓国の人が衣を染めるという紫の色が染みつくように紫の衣を召されたお姿が私の心に染みついて君のことばかりが思われてなりません(「紫」は三位以上の礼服の色)。

 大和へ君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も響(とよ)めてぞ鳴く(巻4 570) 

 大和へ君が出発される日が近づいたので心細いのか野に立つ鹿までがあたりを響かせて鳴いています。(鹿は秋には鳴きますが、12月に鳴くことはありません)