1610年12月3日(慶長15年10月18日)は徳川四天王徳川十六神将徳川三傑に数えられ、名槍『蜻蛉切り』を片手に50余度の戦いにかすり傷一つ負わなかったと言われる本田平八郎忠勝の命日にあたります。




忠勝は本田忠高の長男として天文17年2月8日(1548年3月17日)に生まれます。
天文18年(1549年)、忠高が戦死してからは叔父忠真のもとで育てられます。
幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣します。
この時、叔父忠真は自らがとった敵の首を忠勝にあげ、手柄にさせようとした際、忠勝はこれを断り、自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げて帰ってきたと言われています。




家康が今川家から独立し、永禄6年(1563年)三河を統一しようとした最中、三河国で一向一揆が起こり、徳川家は家康に仕える者と一向宗側につく者と二分されてしまいます。
同じ本田一族は一向宗(浄土真宗)側に付きますが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗して家康に付き武功を挙げます。
また、元亀元年(1570年)の姉川の戦いこちら 参照)にも参加し、朝倉軍1万に無謀とも思える単騎駆けを敢行し、朝倉軍を打ち崩しました。
元亀3年(1572年)の一言坂の戦いこちらこちら 参照)でも目覚しい働きをし、


『家康に過ぎたるものが二つあり。
唐の頭(兜)に本田平八』


という武功を称える狂歌が歌われています。
天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加し、忠勝は数々の戦いで武功を挙げたことで、敵味方問わず賞賛され、家康からは


『まことに我が家の良将なり』


と絶賛し、織田信長からは


『花実兼備の勇士』


豊臣秀吉からは


『東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる』


と勇将として讃えているほどです。

天正10年(1582年)の本能寺の変の際には、家康は僅かな部下と共に堺にいて、忠勝もお供をしていました(この時、徳川四天王の酒井忠次榊原康政、伊賀忍者服部半蔵、商人茶屋四郎次郎こちら 参照)などがお供をしていました)。
この時家康の転機の1つと数えられるほどの危機的状況でしたが、伊賀出身の半蔵の道案内で険しい伊賀越を成功させ、一命を取り留めます。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いこちら 参照)では、わずか500騎で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、目覚しい働きをします。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いこちらこちら 参照)では家康本陣に従軍し、本戦では島津義弘と激戦を繰り広げます。
また、吉川広家など諸大名に書状を送って東軍につかせる工作にも活躍をし、この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名藩(現三重県桑名市)10万石に移されます。




余談ですが、忠勝の娘に小松姫という人物がいますが、小松姫は真田家嫡男真田信幸の元に嫁ぎます。
しかし、関ヶ原の戦いの際には信幸は東軍に属し徳川秀忠に従軍しますが、父真田昌幸・弟真田幸村(本名真田信繁)は西軍につき、さらに上田城にて秀忠軍を足止めしこちら 参照)、秀忠は本戦に間に合わず苦汁を飲まされます。
また、これに対して家康の怒りも計り知れず、昌幸・幸村親子は死罪とほぼ意見が固まっていましたが、信幸は加増された功績を昌幸・幸村親子の助命を申請しますが、流石にこれを許すことはできませんでしたが、信幸の申請に忠勝もこれに答え家康を説得し、昌幸・幸村親子は九度山へ蟄居処分になったと言われています。
この際、信幸と忠勝は許しが出なければ切腹をすると言ったため、忠勝を失いたくない家康は渋々許したとも言われています。




しかし、世の中が平和になっていくと、本田正純などの若く文次に優れた者を家康や秀忠の側近としておいたため、忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、不遇されていきます。



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