三方ヶ原の戦い前半まではこちら 参照してください。


二俣城落城寸前に織田軍3千の援軍を得ることができた徳川軍は、1万1千に兵力を増しますが、依然兵力差が激しいことに変わりはありませんでした。
そして、武田軍の次の目的は本城浜松城であると定めをつけ、家康は籠城戦に備えます。
一方二俣城を落とした武田軍は元亀3年12月22日(1573年1月25日)、さらに西に軍を進め、遠州平野を西進していき、目的地浜松城をそのまま


無視をし素通りしていきました。
これを知った家康は、家臣の反対を押し切り籠城策から三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う策に変更し、浜松城から追撃に出ます。
しかし、この動きは武田軍にすぐさま知られ、坂にかかる手前で軍を反転させ、魚鱗の陣にて待ち構え、徳川軍は鶴翼の陣をとって戦闘が開始されます。
しかし、この戦いは兵力・戦術ともに劣る徳川軍に勝ち目はなく、わずか2時間足らずで甚大な被害を受けて敗走することになります。
この戦いで武田軍は死傷者200人、徳川軍は死傷者2千人の他、鳥居四郎左衛門成瀬藤蔵夏目吉信など多くの家臣を失います。
また、織田軍では平手汎秀などが討ち死にしています。
この戦いは野戦に持ち込んだことを含めすべて武田軍の思惑通りに進んだと言えますが、戦闘開始時刻が遅かったため、家康を打ち取ることはできませんでした。


徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、家臣たちの力により(夏目吉信などは家康の名を名乗り、家康撤退の時間を稼いで討ち死にしています)、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰ります。
この時、家康は恐怖のあまり脱糞した(家康はこれを味噌だと言ったとも伝えられています)とも伝えられ、後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われています。
浜松城に到着した家康は、全ての城門を開けてかがり火を焚き、有名なしかみ像を描かせると、湯漬けを食べてそのままいびきをかいて眠り込んだと言われています。


過去の記憶を聞いてみよう

しかみ像図


一方、浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、浜松城の様子から警戒心を煽られ、城内に突入することなく、そのまま引き上げていきます。
同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世天野康景らに命じ、浜松城の北方約1kmにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲を仕掛けます。
この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、徳川軍が崖に誘き寄せるために崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなど、多数の死傷者を出したという。
ただし、『犀ヶ崖の戦い』は徳川幕府によって作られた資料が初出であるため、信ぴょう性は薄いです。


三方ヶ原の戦いは家康が生涯でただ1度の敗北戦として知られています(上田合戦は徳川軍は敗北しますが、家康自身は参戦していないためカウントはされません)。
また、この戦いを教訓とし、武田軍の戦略をそのまま後に関ヶ原の戦いで用いて、大垣城に籠城する西軍を野戦におびき出し見事勝利を収めます。
また、三方ヶ原の戦いでは家康の旗印が倒されるところまで陥りましたが、旗印が倒されるのは生涯で2回だけで、もう1つは家康最後の戦いの大坂夏の陣で、豊臣方武将真田幸村の3度の本陣突撃により、旗本達は家康をおいて一目散に逃げ出し、旗印も倒され、家康自身も自刃を覚悟したと言われています。


よろしければお願いします。



ペタしてね


読者登録してね