1596年9月19日(慶長元年閏7月27日)は京都の豪商茶屋清延の命日にあたります。
茶屋清延という名前はあまり馴染みは薄いかもしれませんが、茶屋四郎次郎と言うと少しは馴染みがあるかもしれませんね。
ただ、この四郎次郎と言うのは茶屋家の襲名で、本名ではありません。
正式な名字は中島氏とされていて、信濃守護小笠原長時の家臣中島明延武士を廃業し、京に上って呉服商を始めたのが始まりとされています。
また、茶屋の屋号は室町幕府13代将軍足利義輝明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来されます。
そして明延の長男清延はこの茶屋四郎次郎の初代に当たり、徳川家康と深い関係になります。
若い頃から家康に仕え、本能寺の変の際堺に滞在中の徳川家康一行に早馬で一報し、『伊賀越』の脱出劇の際には、物資ともに支援を行いました。
これにより徳川家康の御用商人として取り立てられます。
また、これ以降も代々徳川家を支えていくことになります。


余談ですが、徳川家康の死の原因とされている『鯛の天ぷら』ですが、これを家康に勧めたのは2代目清忠の弟で3代目を継いだ清次とされています。
ただし、これについては食べた日と死んだ日に差がありすぎてほぼ否定されています。
これに変わって主流とされているのが『胃癌説』です。
『徳川実紀』によると


『見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった』


と書き留められていて、胃癌に似た症状が記されていることから胃癌説が誕生しています。
江戸城内では後代天ぷらを作ることを禁止されていて、これは家康の死因が天ぷらを食べたための食中毒であるためのものと言われていますが、実際には、大奥の侍女の一人が天ぷらを作っていた際火事を出しかけたため禁止されたとされています。


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