鬪鷄神社(田辺市東陽) | ゆきまるのブログ

ゆきまるのブログ

風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

おはようございます(´・ω・`)

昨日の続きです(*'∀`*)v

法輪寺から県道206号を北へ走り、アオイ交差点を右(東)に曲がると、一番奥に鬪鷄(とうけい)神社があります初詣2

鬪鷄神社『和歌山県神社庁公式サイト』『紀伊続風土記』より

祭神
(主祭神)伊邪那美命
(副配祀)事解之男命、速玉之男命、天照皇大神、伊邪那岐命、宇賀御魂命、天乃忍穂耳命、邇々杵命、火々出見命、鵜草葺不合命、火産霊命、埴山比売命、弥都波能売命、稚産霊命、手力男命、八百萬神

合祀社    藤巖神(明日更新)、玉置神、弁天神、戎大黒神、弁慶社

境外社    若宮神社(後日更新)、稲荷神社、八阪神社、浦安神社、恵美須神社

旧牟婁郡田邊荘湊村の南に鎮座し、田邊城下の総産土神。江戸時代後期の社号は「新熊野鬪鷄権現社(公式サイトでは、新熊野合権現)」と記され、境内は周6町13間(約677メートル)、馬場は長さ127間(約228メートル)・幅6間(約10メートル)。『紀伊続風土記』によれば、神宮寺の松雲院(寺号は覚方寺、真言宗御室派)があり、本堂・護摩堂・地蔵堂・歓喜天堂・僧坊が建立されていたが、現存せず。本尊の菩薩形坐像(弁慶観音、和歌山県指定有形文化財)は海蔵寺に移されている。

社伝によれば、熊野別当堪快の時、三所権現をこの地に勧請して新熊野と称した(公式サイトでは、允恭天皇8年(424年)9月、熊野坐神社から勧請したとある)。その頃、この地は三山の領地だった縁で勧請するに至り、堪快の子堪増はこの地に住居を構え、人々は堪増を「田邊別当」と呼んだ。元暦元年(1184年)、源頼朝が平家追討の挙兵をした際、神前にて紅白の鷄を放って闘わせて戦況を占ったところ、白鷄が勝ち、源氏に味方することを決めたと云う。この時に社号を「鬪鷄権現」と称した。

時を経て、神寳は天正の兵乱で紛失してしまうが、慶長年間(1596年~1615年)に浅野家より米5石の寄附があり、後に田邊を治めた安藤家もこれに倣う。古くは社僧6人・講衆6人・神戸8人・神頭2人・堂下3人・承仕2人・本願(現・大福寺、後日更新)1人あり、神事や祭礼は厳重に執り行われてきたが、乱世に至って大いに衰退したと云われる。

公式サイトによれば、明治4年(1872年)に田辺県郷社、明治6年(1873年)に和歌山県村社、明治14年(1881年)に県社に列したと云う。

鬪鷄神社の本殿6棟(本殿・上殿・中殿・下殿・西殿・八百万殿)の他、神社で行われる田辺祭(7月24日・25日)、所蔵する万代記(大庄屋田所家の記録)・田辺町大帳及び早見表(町会所の記録)・御用留(田辺組(村方)の記録)は和歌山県指定文化財に指定されています。

鳥居(一ノ鳥居)初詣2

鳥居前の道路は交通量が多く、内側では工事をしていたので、やむなく駐車場から撮りましたガーン

鳥居(二ノ鳥居)初詣2

手水舎初詣2

文化財の説明板初詣2

石灯籠初詣2

左右一対あります(*'∀`*)v

拝殿初詣2

本殿(和歌山県指定文化財)初詣2

西殿(和歌山県指定文化財)初詣2

合祀社初詣2

その他、境内の至るところに小社が建立されています(*'∀`*)v

百度石初詣2

社務所初詣2

堪増と弁慶の像初詣2

境内初詣2

馬場初詣2

本来は少し北に鎮座する若宮神社まで続いていたそうです(*'∀`*)v

境内は山全体(鬪鷄公園)なので、結構広いかと思いますが、建築物は東側に集中しています。駐車場は一ノ鳥居右側に有料駐車場があります好

この後、境内にある藤巖神社へ向かいました(*'∀`*)v