「ぶぶ漬けどうどす」
を観てきました。
ストーリーは、
京都の老舗扇子店の長男と結婚したフリーライターの澁澤まどか。450年の歴史を誇る老舗の暮らしぶりをコミックエッセイにしようと、義実家や街の女将さんたちの取材を始める。「本音と建前」を使い分ける京都の文化を知らず、女将さんたちを怒らせ、事態は街中を巻き込んで思わぬ騒動へと発展していく。
というお話です。
京都の老舗扇子店の長男と結婚したフリーライターのまどかは、数百年の歴史を誇る老舗の暮らしぶりをコミックエッセイにしようと、夫と共に義実家を訪ねる。夫は直ぐに東京へ帰るというが、まどかはしばらくお世話になり、記事を書こうというのだ。
その日からまどかは、義実家や街の女将さんたちの取材を始めようと挨拶周りを始めるのだった。ところが、「本音と建前」の文化を甘く見ていたせいで、気づけば女将さんたちの怒りを買ってしまう。
猛省したまどかは、義母について京都の正しき伝道師になるべく努力するが、義母も周りの女将も全く相手にしてくれない。それでもずうずうしく懐に踏み込んでいくまどかの行動は街中を巻き込んで思わぬ方向に動いていく。そして…。後は、映画を観てくださいね。
この映画、キャストも良いし、良い映画だとは思うのですが、私には合わなかったのかな。どーも理解が出来ませんでした。京都の文化は理解しているし、そういうのがダメだった訳では無く、主人公のまどかの図々しさに辟易してしまったんです。
この”ぶぶ漬けどうどす”という言葉は京都特有の言葉かもしれないけど、日本のどの地域にもそういう言葉ってあったでしょ。日本人には昔から伝統的に「相手の気持ちを考えましょう」という考え方があって、「配慮する」という言葉で表されるように図々しくするのはマナー違反だという文化があったと思うんです。
京都は古くからの店が残っていて伝統が残っているけど、東京や大阪などは海外的な思考の強欲な人間が「配慮する」という言葉を排除して金を優先させて動いたために、伝統も無くなり「配慮する」ということをしなかったためにガチャガチャになってしまったのだと思うんです。
なので、この京都の言葉を特別なモノにしてしまった私たちがいけないんですよね。このまどかのように、言葉を直接受け取って、相手の真意を全く考えようとしない人間が増えたことが、日本の衰退、日本人の劣化に繋がっているのだと思うんです。この映画が訴えていたことを上手く私は受け取れませんでしたが、私が思ったのは、日本人自体が変わったんだよなったことでした。
映画では、まどかが京都へ行き、義実家に泊まって京都を周り、なんだか人付き合いをぐちゃぐちゃにしてしまうんです。お義母さんは息子の嫁だからと思い、我慢しながらも時々イジワルなんかをして何とか気持ちを抑えているんだけど、実家の売却話が始まってからは、マジでまどかが邪魔な人間になり始めて…。
そしてまどかの夫は不倫しているし、その相手もおいおいって感じだし、この関係性どうなのよって感じでした。夫が不倫していたと解った時点で話し合いをして離婚とか、相手と別れるとかなるんじゃないの?夫の実家が好きだからって、不倫したままでイイってことにはならないでしょ。このまどかの行動は全く私には理解が出来なかったなぁ。
義実家は自分の実家ではないのだから、お義母さんが売りたいと言ったら、嫁に言う権利は無いんだよ。息子なら言ってもいいけど嫁は言うもんじゃないでしょ。そこら辺も配慮なのよ。例えば自分が不動産業に長けていて、不利な契約をされそうになっているならアドバイスしても良いと思うけど、それ以外なら口を出すべきじゃないんです。そこも酷いよね。
何だかごめんなさい。主人公への文句ばかりになってしまって、内容について言えることが無いんですよ。だって、京都の方々が言っていることは至極あたり前のことであり、「そこら辺は空気読めよ」ってことでしょ。わざわざ口で言わなきゃ分からないような人間とは付き合いたくないですよ。
今は街に「ごみを捨てるな」とかあるけど、ごみをそこら辺に捨ててはいけないと言わなくても分かるのが当たり前の国だったのに、下品で教育されていない人間が何故か増えてしまい、わざわざ注意書きが必要になっているんです。何故そんな状態になってしまったのかというと、言わなくても判りますよね。
良き日本の伝統が失われてしまったというのが、この映画を観て解りました。私はこの映画、お薦めしたいと思います。でも、私の感想は、この映画が訴えたかったことを理解出来ての感想ではないと思います。この映画は何か他のことを訴えたかったんじゃないかと思うのですが、ごめんなさい。私の能力不足です。でも、面白かったので、ぜひ、観に行ってみてください。
ぜひ、楽しんできてくださいね。
「ぶぶ漬けどうどす」