「徒花 ADABANA」SF好きな私は何度も観てきた内容なので、ちょっと共感が出来ませんでした。 | ゆきがめのシネマ。劇場に映画を観に行こっ!!

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観てきた映画、全部、語っちゃいます!ほとんど1日に1本は観ているかな。映画祭も大好きで色々な映画祭に参加してみてます。最近は、演劇も好きで、良く観に行っていますよ。お気軽にコメントしてください。
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「徒花 ADABANA」

 

を観てきました。

 

ストーリーは、

延命治療が国家により推進されるようになった近未来。新次は理想的な家庭を築いていたが、重い病に冒され病院で療養している。手術を控え、臨床心理士まほろの提案で自身の過去についての記憶をたどり、さらに不安を募らせた新次は、“それ”という存在に会わせてほしいとまほろに懇願。“それ”とは、上流階級の人間が病に冒された際に身代わりとして提供される、全く同じ見た目の“もう1人の自分”であった。

というお話です。

 

 

裕福な家庭の後継ぎとして育った新次は、妻との間に一人娘も生まれ、周りから見れば誰もが望むような理想的な家族を築いていた。しかし、死の危険も伴うような病気にむしばまれ、病院で療養している。手術を前にした新次には、臨床心理士のまほろが心理状態を常にケアしていた。

しかし毎日眠れず、食欲も湧かず、不安に苛まれている新次。まほろから「普段、ためこんでいたことを話すと手術に良い結果をもたらす」と言われ、過去の記憶を辿る。

新次は、海辺で知り合った謎の「海の女」の記憶や、幼い頃の母親からの「強くなりなさい、そうすれば守られるから」と言われた記憶を呼び起こす。記憶がよみがえったことで、さらに不安がぬぐえなくなった新次は、まほろに「それ」という存在に会わせてほしいと懇願する。



 

「それ」とは、病気の人間に提供される、全く同じ見た目の“もう一人の自分(それ)”であった。「それ」を持つのは、一部の恵まれた上層階級の人間だけ。選ばれない人間たちには、「それ」を持つことすら許されなかった。新次は、「それ」と対面し、自分とまったく同じ姿をしながらも、今の自分とは異なる内面を持ち、また純粋で知的な「それ」に関心を持ちのめりこんでいく。後は映画を観てくださいね。

 

この映画、同じような内容の作品が多数あります。もう40年ほど前に萩尾望都先生の漫画で読んだのが最初だと思います。「A-A’」という漫画でSFです。宇宙航行時代に危険な場所での研究などを行う人物は自分のクローン体を手配して研究に就いていたという設定です。そしてその後に映画「アイランド」かな。”アイランド”は今回の映画と同じ内容で、金持ちが自分が病気になった場合のスペアとしてクローンを作っておくというお話でした。

 

その次に「わたしを離さないで」というカズオ・イシグロ先生の小説で映画になりました。こちらも今回と同じで裕福な人々のスペアとしてクローン体が作られているという話でした。最後に「オブリビオン」というトム・クルーズの映画は、やはり危険な地域での作業にクローンを用いているという話です。少し近い、遠いがあるかもしれませんが、スペアを作っておくということに関しては同じです。

 

 

内容はまぁよいとして、何が言いたいのかが問題になってくると思うけど、この結末は良くないと思ったなぁ。徒花という意味が効いてくる結末だと思うけど、それって誰もしあわせにならないじゃんと思ってしまい、共感は出来ませんでした。せめて1人くらい幸せにさせてあげて欲しかったけど、誰も幸せじゃないんですよね。

 

新次は裕福な家に生まれたので自分の”それ”(クローン)がいる訳です。だから病気になれば、きっと臓器移植などで健康体になって行き続けて社会貢献をしていくようにとなっているのでしょう。でも長く生きるということは自分の好きには生きられないということ。社会のためにということなら、長生きする意味があるけど、好きな事をして人の役に立たないなら長生きしてくれる意味は無いんです。

 

新次は親の会社(病院の跡継ぎって言ってたかな。)を存続させるために生き続けなければならず、だけど新次自身は今の生き方に満足していないんです。なので、”それ”を使って生き続ける意味はあるのかと悩むんです。通常は過去と向き合い直視することでトラウマを失くすことが出来るけど、この場合は違うよね。

 

 

これ臨床心理士のケアが酷かったです。新次はトラウマがあるのではなく、今までの生き方に正解が見つけられないから治療を受けるのを戸惑っているんです。それなら過去ではなく未来の希望を見せてあげなきゃ治療を受ける気にならないでしょ。過去に向き合って全部思い出してしまったら後悔ばかりが浮かんで生きる気力が無くなるの当たり前でしょ。何をしているのかな?

 

で、過去に向き合っちゃったから、こんな自分がクローンを殺して生き延びていいんだろうかって悩んじゃったんでしょ。自由に生きてきたクローンの方が幸せじゃないかってことよね。でもねそれ違うから。クローンはクローンで、ずっと部品だと言われて生きてきているから、自分の身体を使って貰えなかったら、それこそ徒花なのよ。無駄なんです。どーせ、本人がいなくなったらクローンも処分されるんでしょ。生かしておく意味が無いもん。

 

そもそも、このクローンを作って育てるというのはSF界で毎度問題になります。わざわざ意識を与えなくていいじゃないかということです。ただ栄養を与えて、スペアとしてカプセルの中で生かしておけばよいということです。アイランドという映画では、意識を与えておかないと、生きている人間と同じように成長しないという理屈が与えられていましたがそんなことはありません。

 

 

ips細胞で臓器だけとか身体の各部位だけを作っておけば問題無いでしょ。脳を破壊されたら最後だけど、脳だって細胞培養しておけば、完全に複製は出来ないかもしれないけど、脳の一部だけ取り替えることは可能になるんじゃないかな。そうしたら、わざわざ人間の形で生かしておく必要はないんです。結論から言うと、スペアに心を持たせてはいけないということです。でないと、こうやって再生医療を行うのを迷ってしまう患者が出てしまう。

 

この映画では、そこまで医療が進んでいなくて、まだクローンを作って育てているということになっているのかな。でも、既にクローンと本物の人間の区別がつかなくなってきているので、この世界は崩壊危機に陥っているのだと思います。だから新次も再生医療を拒んだんじゃないかな。人間の生きる意味の根本を考えてしまったのだと思いました。

 

 

何度も同じ内容で映画化されているのを観ていると、それぞれの国の考え方というか人間観が違うんだなと思いました。「アイランド」ではクローン人間の方が生きたいという気持ちが強く、自分の遺伝子の元の人間を殺しに行くという恐ろしい内容でした。こうなってしまうと怖いでしょ。自分のスペアに殺されるって納得出来ないし、何で意思を持たせてるんだよって思うよね。

 

「わたしを離さないで」は自分たちがスペアだと知っているので、従順で最後までスペアとして生き続け、与え続けるんです。たまたま与える必要なく年を取ったら、そのスペアのお世話をする人間になるんです。最後までスペアはスペアなんですよ。そして今回の「徒花」でも”それ”は従順で与えることを良しとして生きているんです。これって仏教的だなと思いました。それぞれの人種の宗教観なのかもしれませんね。

 

 

それにしてもこの最後は納得いかなかったな。解らないではないけど、そういう時代に生きて、沢山の責任を追っているならばその責任を全うすべきだと思うのは私だけなのかな。疲れてしまったなら、その後を誰かに引き継いでおいてあげないと、沢山の人が迷惑をこうむる訳でしょ。”飛ぶ鳥跡を濁さず”という言葉があるように、逃げたいならせめて後の人が苦労をしないように、自分の足跡が見苦しくならないように、するべきだと私は思うんですけどね。それがその身分に生まれてしまった人の責任でしょ。

 

そんな事を思った映画でした。何度も言いますが、この内容は何度も描かれて考えられているので、そろそろ”それ”を生かすのを止める方向になりませんかね。それこそ”攻殻機動隊”のように”義体”を考えるべきなんじゃないの?心を持ってはいけないんです。ゴーストを持っているのは人間のオリジナルだけとしないと、どこまでも問題になってしまいます。

 

 

私はこの映画、お薦めしたいと思います。この内容、この映画が初めての方もいらっしゃると思うので考えて欲しいんです。SFではこのスペアの話、何度も議論されています。これからの未来どうしていくべきなのか、そろそろ考えても良いのかもしれません。ぜひ、観に行ってみてください。

ぜひ、楽しんできてくださいね。カメ

 

 

「徒花 ADABANA」