舞台「マリアの首 -幻に長崎を想う曲-」を観てきました。
ストーリーは、
昭和33年、煉瓦の壁だけとなった長崎・浦上天主堂の保存について議会が紛糾していた頃。昼は看護婦として、そして夜は娼婦として生きる”鹿”。原爆症の夫を支える”忍”。献身的な看護婦である”静”、そして彼女たちを取り巻く男たち・・・誰もが皆、心にも身体いも、癒されない傷を抱えているなか、天主堂の前の崩れ落ちたマリア像の残骸が少しづつ盗まれて行く。
というお話です。
原爆後、復興していく長崎なのですが、そう簡単には戦争を忘れられる訳では無く、原爆被害も終わる事は無い。段々と良くなって行く様に見えるけど、人々の心は貧しく、助けを求めているんです。そんな様子が描かれていたと思うのですが、言葉が長崎弁?なのかな?それが聞き取りにくくて、解らないんです。もし、この言葉に慣れていれば、問題無く、理解も出来たし、スッと入り込めたんだと思うのですが、どーしても、耳に馴染まず、言葉が判らず、入り込めないまま、進んでいってしまい、段々と慣れてきた頃には、終盤に差し掛かっていて、とても残念でした。
マリア像の残骸が少しづつ盗まれて行くというのは、少しづつ人々の記憶から原爆の被害が忘れ去られて行く事とリンクしており、マリア像の首だけは、重すぎて誰も持って行く事は出来ないというのは、酷い原爆被害はどんなに時間が経過しても変わらないという事を表しているのかなと思いました。
”鹿”という女性は、昼は看護婦の仕事をし、夜は娼婦として働いています。それくらい働かないと、生活が出来なかったのだと思うのですが、鹿は、原爆を浴びて、顔の左側にヤケドを負っています。アメリカは、原爆を使って攻撃したという非難を避けるために、ヤケド被害を負った女性を、アメリカに連れて行って整形手術で火傷痕を消すという政策をはじめ、鹿もその候補としてスカウトされますが、そのスカウトの男が、とっても胡散臭いんですよ。そりゃ、断るわなぁ。でも、アメリカって、本当にそんな事もしていたんです。良いんだか、悪いんだか解らないけど、そんな時代だったんですね。
長崎に原爆が落ちたという現実は変わらず、いつまでも人々の心に影を落としている。それは今も。そんな事を描いている舞台でした。
難しい内容だったけど、良い話だと思いました。でも、ゴメンナサイ、私は、あまり理解が出来ていないので、とってもお薦めは出来ません。気になったら観に行ってみて欲しいとしか言えません。難しかったんですもん。きっと、もう一度みたら、もっと理解が出来ると思います。ぜひ、観に行ってみてください。
ぜひ、楽しんできてくださいね。
マリアの首 http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_007981.html