こまつ座の舞台「頭痛肩こり樋口一葉」を観てきました。井上ひさしさんの原作です。こまつ座の第100回記念公演でした。
ストーリーは、
明治の半ば、樋口の家は貧しかった。
父や兄に先立たれ、仕方なく樋口家の戸主となった樋口家の長女・夏子(樋口一葉)は、母・多喜の期待や妹・邦子の優しさに応えようと、孤立奮闘する日々を送る。和歌で自活できないことを知り、小説で身をたてる以外に道はないと悟った夏子はただひたすら筆を走らせる。「ただ筆を走らせるためだけに身体をこの世におく」とそう心に決めた時、夏子の前に現れたのは、彷徨える幽霊の花螢だった・・・。
というお話です。
あの「たけくらべ」「にごりえ」などで有名な小説家、樋口一葉の10代後半から、亡くなるまでのお話です。あの有名な一葉さんが、こんなに貧しかったのかと驚きました。小説家と言うと、確かに、貧乏っぽい感じはしますが、女性の小説家なら、なんとなく、それほど貧困ではないんじゃないかなぁなんて思ってしまっていて、本当に大変なんだという事を知りました。
一葉が生きていた時代は、女性は一歩引いて、男性の為に生きるというような風潮で、一葉のように、自分で行動をしていく女性は珍しかったように見えました。そんな時代に、一家を背負って、生きて行かなければならない宿命を呪い、一度は、命を捨てようと思った一葉。でも、残していく家族のことなどを考えて、どうしても踏切れないんです。そんな生死のラインを感じた時から、一葉の前に霊が現れるようになり、毎年、お盆になると、花螢という霊が訪ねてくるようになります。

この生死のラインって、一度、踏んでしまうと、そこから離れられなくなるんですよね。いつも、そのラインをどこかに感じてしまう。これ、解る人には解ると思う。責任感があればあるほど、勝手に死ぬ事が出来ないし、でも責任感があるから、重圧を人より感じるんですよ。全てを投げ出せれば、どんなに楽なんだろうって思いながら、いつも肩に背負っている。マジで、誰かが殺してくれたら、どんなに楽なんだろうって、いつも頭を過ぎるんです。自分で死ぬのでなければ、家族も憎む相手がいるから納得するだろうし、自分に溜まっていた暗い闇を捨てる事が出来るって。一葉も、そう感じていたのではないかと思います。
一葉の母多喜は、人の目をとても気にする人物で、お金が無くても、どこかから借りて貸してあげるような、見栄っ張りと言うか、虚勢を張って生きている典型のような人物です。この時代は、人にどう思われるか、目立ってしまっていないかという事をすごく気にしていたようなのですが、今も同じですよね。学校でも、みんなと同じように。社会でも、人と同じようにすることが、一番良いように思われて、ちょっと変わっていると、変な目で見られる。でも、変わった事をやる人しか成功はしないんですよね。
樋口一葉が生きていた時代と現代、全く違うように思いますが、人の心は変わっていないんですね。人の目がいつも周りにあって、生きたい様に生きられない、そんなもどかしい人生を、どうやってごまかしながら生きて行くのか。そんな中、死を隣り合わせにしていないと生きていられない人もいるんです。いつでもそっちに行けるって思うからこそ、生きられる。そんな人生もあるんです。自殺はしない方が良いけど、でも、それはそれで選択なんですよね。他人が出来る事は、話を聞いてあげる事だけ。いつでも死ねるっていう、その生死のラインを知っていれば、生きる事も、それほど苦痛ではなく、人の目も気にならなくなります。だって、最後は死んじゃえば良いんだもん。なんでも大丈夫でしょ。
生きにくい世の中を、死というものを隣に置くことによって、勢力的に生きる事が出来た樋口一葉の一生を、面白く、楽しく、そして深い思いを込めて描いているこの舞台、とっても良かったです。もう、上演は終わってしまったけど、もし、再演があったら、ぜひ、母を連れて行きたいと思いました。女性が観ると、とっても深いものを感じる舞台だと思いました。
東京は終わってしまいましたが、兵庫など、他の地域では、まだ上演があるようです。
井上ひさしさんの原作、読んでみようかな。みなさんも、ぜひ、楽しんでくださいね。
頭痛肩こり樋口一葉 http://www.kinokuniya.co.jp/contents/pc/label/20130417105000.html
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