先日、「国民の映画」という、三谷幸喜作・演出の演劇を観てきました。
ストーリーは、
『国民の映画』の舞台は1940年代のベルリン。ヒトラー内閣がプロパガンダの為に作った宣伝省の初代大臣を務めるパウル・ゲッベルスは、すべての芸術とメディアを監視検閲する権利を与えられていた。ある日ゲッベルスは映画関係者たちをホームパーティーに招き、最高のスタッフとキャストを使った理想の映画を作る企画を打ち明ける。そして、ナチス高官たちと映画人たちが一堂に会し、虚飾と陰謀に満ちた狂乱の一夜が幕を開けようとしていた。
というお話です。
ドイツ、ナチのゲッペルスは、ハリウッドに負けない映画を作りたいと考えているんだけど、それを作るには、たくさんの人の力を借りなければならず、映画関係者を自分の家に集めて、パーティをしながら、話をするんです。ナチで力を持っていたゲッペルスに逆らえるような人間はほとんど居なくて、彼に良く思ってもらって、映画製作の重要ポストや重要な役に尽きたいと思っている人たちのドロドロした人間の思惑が渦巻いていて、途中は、ちょっと退屈で眠くなりました。

でも、日常良くある人間の普通の生活の中に、段々とドイツナチスの恐ろしい思惑が入り込んできます。優秀な遺伝子だけ残して、劣悪な人間は排除するというヒトラーのキチガイじみた考え方を、おかしいと思わずに受け入れてしまう人間達。映画の話をしていたり、普通に生活している時には、その考え方はおかしいとか、自分の信念のようなものがあるのに、ヒトラーのユダヤ人排除の話を平然とするヒムラーに、誰も異を唱えないで、逃げるだけというのが、すごく恐ろしく思えました。

ゲッペルスは、とても映画が好きなのですが、映画の良さを教えてくれたのはユダヤ人。自分よりも知識があるユダヤ人を素直に受け入れている反面、排除しようとする。なんと、矛盾していることかと思いました。
人間って、恐ろしいですね。日本でも、学生運動や赤軍というのがあって、みんなでやれば恐くないみたいな感じなのかしら。100匹目の猿のように、一匹が右を向くと、段々と、皆、右を向いて、100匹を超えると接触の無い猿にまで爆発的に増えてしまうという、シンクロニシティという現象なのかな。99匹目までの時は、変わった奴だって思われていたのに、100匹を超えると変わった方が普通になってしまう。常識の改変ですね。

人間の恐さ、恐ろしさ、そして哀しさを表現していて、終わった後、重くなりました。今の時代に、こんな事、絶対に起きて欲しくないって思いました。
出演者は、もう、素晴らしい方々ばかりで、文句の付けようがありません。私は、段田さんのヒムラーが結構好きでした。石田さんは、本当にお美しくて、ステキだったなぁ。三谷さんが、ちょっとくらい顔を出すのかと思ったら、全く出てこないんですね。ま、演出だから、当たり前か。お顔、見たかったな。