安倍晴明の子孫、土御門家の陰陽師所縁の地を訪ねて(3)薬師堂/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。


国道162号沿いにある

加茂神社を後にし

その地を立ち去ろうと

鳥居を出て左手を見ると

お堂のような建物が見える

Google mapで調べると

薬師堂の記載があり

薬師如来は仏教での素戔嗚尊

牛頭天王を信仰している

私にとって無視できませんので

お参りすることにしました。

案内看板には土御門家の当主が

野鹿の滝で薬師如来に出会うとか

土御門家が加茂神社を建てたなど

そんな記載があり

今まで訪れた場所が繋がったことに

少しお導きめいた感覚がある。








そして私自身は

薬師堂で手を合わせると

心も晴れやかになります。



その場を立ち去ろうとしたら

土御門(安倍)家墓所の案内

立ち寄るのを躊躇しましたが

ひとまずお参りすることに

獣避けの柵を越えて坂を登り

すぐの場所に墓所があり

案内看板を見ると

陰陽道に関係する安倍家三代の墓所

そういった記載がありました。

安倍家と陰陽道って言えば

安倍晴明の名前が思い浮かぶ。

安倍晴明とこの地域になんらかの

所縁があるに違いないと

調べてみた。

そして天社土御門神に

辿り着くことになる。






納田終薬師堂

のたおいやくしどう

おおい町名田庄納田終

納田終薬師堂は江戸時代初期に建てられ、県内でも古い建築物であり、住民により茅葺屋根の材料である茅場を管理し、定期的に葺き替えを行い、長年この薬師堂を大切に保存してきた活動が評価され、福井県の有形文化財に指定されました。しかし、長年の風雪害により早急に保護対策が必要な状況となりました。そこで、平成21年に福井県の補助を受け半解体保存修理が施行され現在に至っています。薬師堂は増福寺の一部とされ、すでに廃寺となっており薬師堂だけが遺されている。この増福寺は文治3年(1187)の創建で、現在地とは別の場所に創建されたと伝えられる。現在地から西方にある片又谷と呼ばれる場所に昔、温泉が湧き出て「湯の森」と呼ばれたといわれる。かつて片又谷には片又家や佐分利から移り住んだ松村家があり、現在でも石垣などの屋敷跡や小さな祠が残されている。片又谷には平安時代に奥州で一大勢力を誇った豪族・安部貞任(1062年没)の子孫・石王丸という人物が、源義家との戦いに敗れ、丹波路を山づたいに逃れ隠棲していたといわれる。松村治郎大夫家が代々伝えてきた「薬師如来縁起」には次のような記述がある。文治3年(1187)3月7日の夜、石王丸は夢の中でまぶしい光の中から「我は安部貞任が信心し、安倍家代々を護ってきた薬師如来瑠璃体である。南方の高い滝のうえに居るが誰も知らない。汝が直々に来てくれるのを待っている。」とのお告げを聞いた。南方の滝(現在の野鹿の滝)に三つの玉が瑠璃色の光を放っているのを見つけ、それを持ち帰り寺堂を建て増福寺と名付け、人々から温泉寺と呼ばれた。それから100年ほど後の弘安3年(1280)に寺堂、仏像は消失。そのとき温泉はたちまち冷水に変わるが、灰燼の中に瑠璃の光が輝き、増福寺の僧が三つの玉を救い上げ、加茂明神の森の近くに堂を建て新たな仏像と共に瑠璃玉を納め祀った。その堂も永禄元年(1558)に再び焼失し仏像も焼けてしまうが瑠璃玉は失われず、改めて白屋集落の奥にある現在地に薬師堂を建て祀った、と縁起にある。現存する薬師堂は、永禄元年(1558)に焼失後、再建、棟札の写しによって元和3年(1617)の再建であるとされている。また、現存する鰐口には寛文12年(1672)の銘が刻印されている。 

「薬師堂保存修理事業報告書」より




土御門(安倍)家墓所

つちみかど(あべの)けぼしょ

おおい町名田庄納田終

若狭国(福井県)の南端、丹波国(京都府南丹市美山町)に接する福井県大飯郡おおい町名田庄納田終には戦国時代この地に京都より移住した陰陽道宗家安倍氏の遺跡が存在することは早くから知られていた。遺跡は小字小谷の山麓に安倍家三代の墓所があり、また、その近くには陰陽道祭祀・儀式などをおこなったとされる施設と館跡が残されていて、すでに名田庄村誌に詳しく述べられている。文献等の史料によれば、応仁の乱(1467)の戦火を避けて所領の当地(中世では名田庄上村)へひきこもり、この地で陰陽道及び、天文・暦・易の三道をつかさどっていたと伝えられる。安倍家は安倍晴明を祖とし、陰陽道・泰山府君を祀る安倍神道が成立したという。若狭とのかかわりは南北朝期の文和2年(1355)に泰山府君祭料として縫殿頭有世に当地を与えられたのが初現とされ(「土御門関係資料」宮内庁)、以後近世初頭まで存続した。有世は名田庄へ隠棲した有宣の曽祖父にあたる人物である。納田終に居住したのは有宣(永正11年82歳で没)・有春(永禄12年69歳で没)・有脩(天正5年51歳で没)とその子久脩であった。有宣の若狭入部については若狭守護武田元信の有力被官、徳祥寺領名田庄代官だった栗屋孫三郎元泰(のち右京亮元隆)の援助があったと考えられよう。さて、近世初頭に安倍家陰陽頭として活躍したのが久脩である。彼は永禄元年(1558)生まれて、14歳で陰陽頭、16歳で従五位下、21歳で正五位下天文博士となった逸材であった。久脩は若狭で生れ信長の天下統一と同時に京都へ帰ったと推定されるが、文禄4年(1595)秀次事件に連座したものか秀吉の怒りにふれて若狭へ蟄居し、再び京都へ帰るのは家康が事実上天下を手中にした関ヶ原合戦のあと慶長5年(1600)のことである(近藤克巳「近世陰陽道史の研究」)。久脩は家康にとり入り、以後、徳川家歴代将軍宣下には天曹地府祭を勧行するなど、朝廷以外にも武家方とも深いかかわりを持ち不動の地位を築きあげたのであった。

名田庄村誌より


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
********************

元気に自然に、ノーファンデ宣言。
エステティックサロン
le grenier  [グルニエ] 
公式ホームページ