醍醐天皇が母・胤子を弔い創建した、山科亀甲山・勧修寺/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。



900年(昌泰3年)に、
醍醐天皇が母・藤原胤子の
菩提を弔うために創建した門跡寺。








氷室池を中心とする
池泉回遊式の庭園は、
京都市の名勝に指定されています。
皇室や藤原氏の庇護を受けて
繁栄していましたが
たび重なる戦火で衰退し、
江戸時代に再興されてからは
法親王が暮らす門跡寺院となった。
内部は非公開だが、
宸殿や書院はこのとき明正天皇の
旧殿を賜ったもの。
庭園には桜、藤、杜若、
花菖蒲などが咲き、
冬には氷室池にマガモも訪れる。
樹齢750年を超えるハイビャクシン
徳川光圀寄進の雪見灯籠も必見。


観音堂の桜は、2018年春
「そうだ 京都、行こう。」の
ポスターにも使用されたほど見事
春には桜目当てに
訪れる方も多くいます。
今の季節は睡蓮と蓮が
池一面の緑にポツンと紅を浮かべ
鮮やかな色を楽しめます。
スイレンの花言葉は
「清純な心」「信頼」「信仰」
ハスの花言葉は「清らかな心」
「神聖」「離れゆく愛」「雄弁」
秋には境内の各所で紅葉が見られ、
落ち葉がつもり真っ赤な
絨毯を敷いたような姿も
趣深い光景です。

藤原高藤と宮道列子の
一夜の恋。その情熱的な
エピソードは列子の容姿の
美しさの想像を掻き立てる
そしてその時の子、
藤原胤子もまた美しきDNAを
受け継いだように思う。

醍醐天皇が
若き美しい母を偲んで
四季を通じて美しい庭園に擬えた
それほどに優美な庭園なのです。





本堂は残念ながら
台風の影響で修復中でしたが
ちゃんとお参りできました。





勧修寺
かじゅうじ
京都市山科区勧修寺仁王堂町

山号 亀甲山
宗派 真言宗山階派
本尊 千手観音
開基 醍醐天皇


寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。


『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改め、氷室池も取り込んだもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470年)に応仁の乱の兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された[注釈 2]。

宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。なお、高藤と列子のロマンスについて『今昔物語集』に説話が残されている(後述)。

創建年代については上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺に列せられているが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば、胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。

前述の通り、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。天永元年(1110年)、7世長吏となった寛信(1084年 - 1153年)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。

南北朝時代、後伏見天皇第7皇子の寛胤法親王(1309年 - 1376年)が15世長吏となって以来、勧修寺は宮門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺した。中世の勧修寺は現在の京都市山科区勧修寺一帯を領するほか、各地に広大な寺領をもち、真言宗小野流の中心寺院、皇室ゆかりの寺院として最盛期を迎えた。建武3年(1336年)の「勧修寺寺領目録」によると、勧修寺の寺領は加賀国郡家荘をはじめ、三河国、備前国など18か荘に及んでいた。

その後、応仁の乱の文明2年(1470年)の兵火で寺は焼失。豊臣秀吉が伏見街道を造るに際して境内地は削減され、氷室池の南側を埋め立てられるなどして次第に衰退する。

寺が再興されるのは天和2年(1682年)、霊元天皇皇子の済深法親王が29世長吏として入寺してからであった。法親王が東大寺大仏殿再建に功があったとして、寺領が1,012石に加増された。現存する本堂、宸殿、書院等の伽藍は、霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜されたものである。済深法親王に次いで30世となった尊孝法親王は伏見宮出身であった。法親王の叔母にあたる真宮理子(さなのみやまさこ)が紀州藩出身の将軍・徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊国の約100か寺が勧修寺の末寺となった。西国三十三所観音霊場札所として著名な紀三井寺護国院は、現在は真言宗から独立しているが、元は勧修寺の末寺であった。幕末の32世済範入道親王も伏見宮の出身であったが、後に還俗して山階宮晃親王となった。

真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も勧修寺は「真言宗」にとどまっていたが、1907年(明治40年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。勧修寺は山階派本山となった。その後、第二次世界大戦中には宗教団体法の施行により、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は完全に統合されたが、戦後の1952年(昭和27年)に再度山階派として独立している。

なお、1872年10月30日(明治5年9月28日)から1881年(明治14年)6月にかけて勧修寺内の一部が勧修小学校として使用されている。

1951年(昭和26年)には、かつて塔頭寺院があった場所に大石順教によって塔頭佛光院が建立されている。


『今昔物語集巻22「高藤内大臣語 第七」には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・藤原良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。

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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
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