四季を通じて花で楽しむ。7月はハスの花、三室戸寺/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。






京阪電車宇治線「三室戸」駅下車。
駅の直ぐ南側にある道路を
東の方向へ道なりに進む。

光仁天皇が行幸した際、
霊感を感じたので藤原犬養に命じ
周辺を探させたところ、
宇治川の支流である志津川上流の
岩淵で黄金の仏像を
発見したと伝えられている。
この仏像を安置するため、
宝亀元年(770年)に
奈良大安寺の行表法師を招き、
御室戸寺としたのが
寺の起源とされているが、
智証大師円珍の開山という
説もあるという。
御室戸寺は後に
三室戸寺に改称された。


西国観音霊場十番の札所で、
本山修験宗の別格本山です。
五千坪の大庭園は
枯山水・池泉・広庭からなり、
五月のツツジ(二万株)・
六月のアジサイ(一万株)・
七月のハス・秋の紅葉など
四季を通じて美しい花模様を
楽しめるお寺です。







階段を上がると
宇賀神さんの蛇の像に迎えられ
この日は紫陽花を終えて今は
ハスが最盛期を迎えていた
雨上がりの緑が映え
ハスの花を鮮かに映す
この歳になっても
美しいものを観て
心が踊るような光景
線香の香りで心を鎮めて
暫し手を合わせる











三室戸寺
みむろとじ
京都府宇治市莵道滋賀谷

山号 明星山
本尊 千手観世音菩薩。
西国三十三所第10番札所。
本山修験宗の別格本山。


寺伝によれば、宝亀元年(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建したものという。創建と本尊に関しては次のような伝承がある。天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、その光の元を尋ねさせた。犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、滝壺に身の丈二丈ばかりの千手観音像を見た。犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じたという。光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、当初は御室戸寺と称したという。その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めたという[1]。

平安時代以後
以上のように、当寺の創建伝承については伝説的色彩が濃く、創建の正確な事情についてははっきりしない。園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』所収の僧・行尊の三十三所巡礼記は、西国三十三所巡礼に関する最古の史料であるが、これによると、11世紀末頃に行尊が三十三所を巡礼した時は、御室戸寺は三十三番目、つまり最後の巡礼地であった。

寛平年間(889年 - 898年)には園城寺の円珍が留錫し、その後、花山法皇がこの地に離宮を設け、当寺を西国三十三所巡礼の第10番札所とした。

康和年間(1099年 - 1103年)、園城寺長吏の隆明大僧正が当寺を中興し、また園城寺子院の羅惹院を当寺に移転させ、自らも住するようになると、御室戸の僧正と呼ばれるようになり、御室戸寺も隆盛を誇った。この頃、光仁天皇、花山法皇、白河法皇三帝の離宮になったことから御室戸寺の「御」を、「三」に替えて三室戸寺と称するようになる。

その後寛正3年(1462年)の火災で伽藍を失うが、文明19年(1487年)に園城寺阿弥陀院の壱阿によって本堂が再建される。しかし、天正元年(1573年)には織田信長に敵対して槙島城に立て籠もった将軍足利義昭の味方をしたために寺領を悉く没収されて衰退した。

寛永16年(1639年)、道晃法親王によって復興される。

現存する本堂は江戸時代後期の文化11年(1814年)に法如和尚によって再建されたものである。

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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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