かつて勧修寺の鎮守、亀甲山の浄めの水と巨大破魔矢、吉利倶八幡宮/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。




勧修寺を出て細い路地を南へ進むと
勧修寺にゆかりのある神々を
奉斎している宮道神社がある。

その南に大きな鳥居が見える
かつて勧修寺の鎮守でもあった。
吉利倶八幡宮の大鳥居です。







興味深く鳥居の奥へ
とても雰囲気の良い八幡さまです。
神社の鳥居をくぐると
湿度の高い重たい氣が
身体中を纏い厳かな気持ちになる
勧修寺のそばにありながら
観光客は皆無で心が癒される
拝殿の両脇に立っている
竹で造った巨大な破魔矢。
武神八幡宮の力強さは
今では地域の鎮守を担っている
そんな気がします。

「吉利倶」という名称は、
境内の老杉が倒れ伐採したが、
その切断面に梵字で
「吉利倶」の3文字があった
そのことに由来しているという。
そして当宮の御山が
亀の甲羅のように見えることから、
亀甲山と名付けられました。
醍醐天皇が勧修寺を建立した際、
身を清めたとされる
井戸が伝えられている。


古くは皇族や武将の崇敬が篤く、
8代将軍足利義政や豊臣秀吉、
日本海軍の元帥東郷平八郎にも
崇敬されていた神社です。
社祭には勅使の差遣があり、
参詣者は五穀豊穣・平穏無事を
祈願したという。








吉利倶八幡宮
きりくはちまんぐう
京都市山科区勧修寺御所内町


主祭神
応神天皇・仲哀天皇・神功皇后

山科区勧修寺の八幡宮(はちまんぐう)は、八幡山(亀甲山)中腹にある。「山科八幡宮」、「種子(しゅじ)八幡宮」、「吉利倶(きりく)八幡」とも呼ばれた。かつて、神仏習合期には、境内の北にある勧修寺の鎮守社として祀られていた。現在は、地区の産土神として崇敬されている。

仁寿3年の創祀。江戸期までは勧修寺の鎮守社であり、現在は小野の産土神。「吉利倶八幡宮」という名称は、かつて境内の老杉が倒れたため切断したが、切断面に梵字で「吉利倶」の3文字があったことに由来している。
現本殿は元禄8年の建築で、大工の名から勧修寺の元禄復興の一環として再建されたみられている。その後、享保19年・安永8年に修理された記録が残る。本殿は桁行3間・梁行2間の切妻造桧皮葺で、向拝部分は享保の修理で改変されたものと推定されている。内部は内外陣の間仕切りが棟通りと一致せず、内陣には祭壇が設けられている。
 江戸中期の大型切妻平入本殿の形式をよく伝えるものとして京都市指定有形文化財に指定されている。

案内板より
京都市指定有形文化財
八幡宮は仁寿3年(853)の創建と伝え、江戸時代までは勧修寺の鎮守社であった。
 原本殿は元禄8年(1695)に建築された。このときの大工は、後に勧修寺の宸殿(しんでん)等の造営を手掛けていることから、勧修寺の元禄復興の一環として再建されたと考えられる。その後、享保19年(1734)と安永8年(1779)に修理が行われており、向拝部分は様式から、享保の修理時に改変されたものと推定される。
 建物は桁行三間、梁行二間で切妻造(きりづまづくり)、桧皮葺(ひわだぶき)の屋根をのせる。内部は、内陣(ないじん)と外陣(げじん)が前後に仕切られるが、間仕切の位置は棟通りと一致せず正面に寄り、内陣には祭壇が設けてある。
 この本殿は、向拝が改変されているものの、当初の姿を伝えており、江戸時代中期の大型の切妻造平入本殿として、その価値は高い。
昭和62年5月1日指定 京都市


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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
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