靭に似た大岩と淵が壺となった、岩壺神社/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。





秋祭りで有名な三木市の岩壺神社。
674年(天武天皇3年)に創建。
社伝によれば神社裏を流れる
志染川の中に岩があり、
その形が靫に似ていることから
岩靫神社と称され、
また、岩のあった場所が淵となり、
壺の形に似ていることから
岩壺神社と称されるようになったと
伝えられている。
享保年間に本殿が焼失したが、
その後産土大神として再建された。







広々とした境内に神楽殿
昔の分校の校舎のような
シンプルな拝殿は
お祭りを意識して建てられた
そんな趣きがある

対照的に神殿は
中井権次一統が手掛けたのか
見事な彫物を愉しむことができる。









岩壺神社
いわつぼじんじゃ
兵庫県三木市岩宮


主祭神
大日孁尊、誉田別尊
上筒男之命、天手力男神
国狭槌尊、天児屋根命


由緒
天武天皇の時代白鳳二年(674年)に創建されたという古いいい伝えのある神社です。そして平安時代の延長七年(929年)に社殿が
再建されたといわれています。岩壺のいわれは裏を流れる志染川に靱(うつぼ)に似た大岩があり、それで岩靱神社といわれた。また裏の川に
大淵がありその淵が壺と呼ばれたので岩壺神社といわれる様になった。
 岩壺神社は氏子の長屋村に向きながら本殿の奥には、播磨風土記に神が天下った三坂の峰といわれる丹生連山の西の端のシビレ山があり
参拝者はシビレ山を拝む様な形に建っています。シビレというのは志牟礼(しむれ)という言葉から来ています。牟礼というのは神の天下った岩座の事で志染から見える神の山という意味で志牟礼になり、長い歳月によりシビレになりシビレ山名なったといわれます。「牟礼考」下田勉。
岩壺神社はこの神の山であるシビレ山を祀る形に建っています。これは一番古い神社の形でそれだけ古い神社だと思われます。

享保年間に社殿を焼失し今の本殿が再建された。明治六年十月に社務所を全焼したため古文書類が無くなり、古いことはあまり分かっていません。
岩壺神社は元々長屋村の産土神社だったが江戸時代に大塚町・芝町・平山町・東条町・滑原町の五ケ町が加わった産土神社なったらしい。
その時期は今南参道入り口にある鳥居が天和二年(1682年)七月に表参道入り口に作られ、貞亨元年(1684年)三月に芝町が手水鉢を
寄進しているのでこの頃だろう。大正十五年に発行された美嚢郡志には240数年前に五ケ町が加わったと載っているのでちょうど時期が合います。
明治四十年には正遷宮があり芝町青年が手水鉢を寄進していますが、美嚢郡誌にはその事は載っていません。
その後大塚町が発行した「大塚」の文中、筒井氏資料の岩壺神社の項目によれば、昭和八年に大改修され拝殿が今の形に建て替えられていて
その時正遷宮が行われている。正遷宮は五月六日午前零時から御神霊遷宮祭典が行われ、夜が明けると午前八時から神官八名稚児六十八人の
行列が行われた。町内では祝賀の屋台が担がれ大いに賑わい午後二時半から長屋小学校で祝宴が行われた。
二日目の七日には午前九時から神前祭式続いて午後四時まで宮相撲、その後町内を練り回った六台の屋台が宮入をして境内は空前の人出だった。
三日目の八日も午後二時から神前祭そして餅まき、その後余興は漫才と喜劇で境内は大いに湧いた。三日に渡る盛大な正遷宮祭だったという。

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
********************

元気に自然に、ノーファンデ宣言。
ほぐし処ケイ・スリー
公式ホームページ