秩父事件から見る今 | 心に光を呼びます Padme★yuki

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いろんなもので隠れてしまってるだけです。
私でよければ、見つけるお手伝いをします。



8月に、秩父をまわった時に
こんな碑を見つけていた。
 
秩父国民党無名戦士・・・

家に帰ってきて、検索したら
秩父事件という、明治時代に起きた事件の民衆側の墓だった。

秩父事件の概要

平らな土地が少ない信州佐久郡の山間地や秩父地方では、
米作に適さない、石が多い傾斜地などに
桑を植えて蚕を飼って生計を立てていた。
これらはしだいに米に代わる重要な生活資金となり、
江戸時代中後期になるとますます養蚕が盛んとなった。

江戸時代後期、1859(安政6)年に
ペリー来航により欧米との貿易が開始され、
良質な日本の生糸は珍重されて日本の主力輸出品となった。
これにより佐久郡の生糸は
横浜港に運ばれてイギリス商人らによって高値で買い取られるようになりました。

明治になってからは、桑の増産を進め、
養蚕や製糸のための種や道具の改良に知恵をしぼって
金融業者から多額の借金をして設備投資を拡大していきました。

1881(明治14)年以後
当時の大蔵大臣・松方正義によるデフレ政策
いわゆる行政改革や、軍拡、軍国主義政策は、
秩父農民の生活をどん底に落としてゆく。
その影響によって、生糸の価格は大暴落し、
養蚕に賭けていた農民たちの生活は破滅に瀕した。
収入は激減したのに、搾取される税金は激増。
借金して養蚕に賭けていた彼らの生活を苦しめた。

1884(明治17)
負債に悩む秩父の農民たちは、各地で山林集会を開き、
困民党と呼ばれる集団が組織されていった。
その中心は自由党員であり、
困民党の活動を通じて自由党に入党する人も出てきた。
だが、国政にいる自由党中央は、
政府による懐柔と抑圧によって、展望も力量も失っていたが、
地方の自由党員を中核とする秩父困民党は、
請願活動や高利貸との直接交渉をくり返す中で、
武装蜂起路線を決定し、
1884年10月半ば以降、
資金面をはじめとする蜂起準備に入った。

決起に向けた組織活動は
地方自由党員らによって進められ、
秩父地方だけでなく、
秩父に隣接する埼玉県男衾郡や大里郡や、
群馬県多胡・緑野・南北甘楽郡、
さらには長野県南佐久郡に及んだ。

明治17年10月31日、夜
最も団結強固な部隊といわれた風布村の農民が
決行日の11月1日を待たずに決起する。
「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」
と檄をを飛ばした大野苗吉の一隊は椋神社へと進撃する。

秩父困民党は次のような「五ヶ条の軍律」を設けた。
この軍律は蜂起をとおして、ほぼ、守られた。
第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱乱暴ヲ為シタル者ハ斬
第五条 指揮官ノ命令二違背シ私二事ヲ為シタル者ハ斬
志がただの暴動にならないように律したのでしょう。

11月1日の夜、
困民軍は甲隊、乙隊がそれぞれ二手に分かれ、
高利貸が最も多い小鹿野の町へ向かい、椋神社を出発する。
そして、悪徳高利貸の打ち壊し、
役場にある公証簿の焼き捨てを決行する。

11月2日には、札所23番音楽寺の鐘を乱打し、

荒川を渡り、大宮郷(現在の秩父市)へと進出する。
大宮郷での蜂起農民は1万余となり、
悪徳高利貸、郡役所、裁判所、警察署を襲撃し、
甲・乙両隊は秩父神社の境内や周辺に集結する。

そこで、信州北相木村より参加し、参謀長となった
菊池貫平の指示で本陣(指導部)を秩父郡役所に移し、
町の治安を自分達の手で確保する。
軍用金を徴収した際に発行された受領書には、
「革命本部」あるいは「革命党本部」と署名を入れた。

秩父地方の権力を困民軍が手中に収め、
そこを「革命本部」と位置づけたことが
「秩父事件」を高く評価されてる大きな所以と言われている。
単純な蜂起との決定的な相違点であるとされる。

警官隊はもはや困民党の蜂起にまったく手出し出来ず、
秩父の町の占領を遠くより眺めているだけだった。
ついに、憲兵隊と
東京鎮台兵(天皇の護衛を目的とする隊がより軍隊化した)
が出動し
秩父から平野部への進出路を完全にふさがれてしまう。
困民党の本陣は、戦況の正確な情報も全く掌握できなくなり、
誤報によって振り回されることになる。
ついに、11月4日午後、
権力側を震撼させた困民党の本陣が崩壊する。

だが、まだ困民軍が解体したわけではなかった。

「粥仁田峠での戦闘」や「金屋の戦闘」などが
本陣崩壊以降行われている。
そして、粥仁田峠、金屋の戦闘でともに敗れた困民軍は
平野部への進出を断念し、警備の手薄な上州・山中谷から
新雪の十石峠を越えて、信州・南佐久地方へと進出していく。
上州や信州の谷間の村々にも
借金からの解放を待つ負債農民がいた。
菊池貫平が率いる150人程の困民軍は、
11月5日秩父を出発した。
十石峠を越える頃には困民軍は300人に増え、
11月7日に大日向村になだれ込んだ時は、
400人になろうとしていた。
上州、信州でも悪徳高利貸の打ちこわしなど
負債農民の為の闘いが続けられた。
11月8日、高崎での鎮台兵の前に
長野県東馬流での戦闘をピークに海尻、海ノ口と敗走し
八ヶ岳山麓の野辺山原の高原で
11月9日壊滅する。

ここが、秩父困民党軍の最期である。

11月5日に
東京鎮台兵、憲兵隊が秩父全域を制圧し、
秩父一帯は戒厳令下におかれる。
11月6日には「暴徒糾問所」が4ヶ所に設置され、
警官による残忍過酷な取調べが始められることになる。

椋神社と貴布祢神社の神官を兼務していた
田中千弥という人の日記に、
「秩父暴動雑録」という貴重な記録が残されている。
その中には、高利貸が農民から過酷な収奪を行った事実の他、
「小鹿野訊問所の警官は暴徒の二の手也」と
警官による過酷な取調べも記されている。 

埼玉関係の裁判により困民党総理・田代栄助以下、
幹部7人の死刑を含む3618人が重、軽罪を言い渡される。
さらに「暴徒」、「暴動」、「騒動」等、
ありとあらゆるレッテルが貼られていった。
明治政府は、
秩父困民党武装蜂起を
歴史上から抹殺
することにも総力をあげる。

事件参加者の子孫は、
祖先を「犯罪者」として意識化され
心重い生活を送り、
身元を隠し、
事件を語ることさえ許されず、
事件後逃亡し
行方のわからない肉親の調査も行われないまま
近年に至った。

なぜ、この事件を
今、ブログに書くのか
生糸価格暴落は、
たんに明治政府の政策というだけでなく
英米からの介入もあったのです・・・
明治政府って、ほんと、外国かぶれもいいとこ

この生糸の問題・・・
まさに、今、問題になってるTPPと似てるような気がします。
日本の農村を困窮させることになりかねない。
と、私は思います。
日本の農産物は、美味しい・安全
「やはり国産はちがうわよね~」
とお思いのグルメなあなた・・・
農家のことは関係ないとか、言ってられません。

原発維持・推進派は
選挙を前に、脅しにかかってますね。
値上げか、原発稼働か
ひどいやり方だ・・・
みんな、騙されちゃダメだよ!!!
テレビで言ってること
新聞に書かれてること
鵜呑みにしちゃダメだよ!!!
あれは
脅されて
言わされてる
のだから


目先のオイシイことにとらわれてはいけません。

ここは、本当に正念場です。

これから先の未来
本当に日本人が、日本を良くしていく
心構えが問われています。
マヤ長期暦の終焉
である今
この決定は
今後にものすごく
影響を及ぼします。

みなさん
選挙へ行きましょう


どこに投票したらいいかわからない方は
コチラを読んでみて